2004.11.05
建築の持つ力—建築は世界を変えうるか(2)—
なんか、どう考えても私の独り相撲みたいなことになってきました。これまで皆さんから有益かつ示唆に富んだご指摘をいただいたことをきっかけに、いろいろと反省し、実はこのまま止めようかとも考えましたが、途中で止めるのも悔しいので、無理矢理続けます。つまんなくなっちゃった人は無理に付き合わなくていいですけど、できたら、ご批判はいただきたい。一応、初めての方のために、前回はこちらです。
■力をもつ建築は存在する
『建築』に力があるのか、については様々な議論があろうかと思いますが、私のわずかな経験から判断すれば、力を持つ建築は確かに存在すると思っています。ただし、それが「世界を変え」る程の力があるかどうかは、今のところわかりません。
今回の議論では、前回いただいたコメントより反省し、『建築』と建築とを使い分けてみます。
『建築』
建築と呼ばれるものの総体。
私のイメージでは、大文字の建築が近いかも。
「建築の解体」とか言う場合の『建築』
建築
個々の建物(単体)。
「2丁目の角に建っている建築」という時の建築
それからもう一つ、コメントからの反省を踏まえ、建築という言葉にやたら多くの役割を与えないようにしようとしています。とりわけ、建築の人格化・神格化については202さんのご指摘の通りだと思いますので、これを注意深く避けようと思います。でも、ものごとを人格化して考えようとするのは、私の思考の癖のようなものでもありますから、どこまで排除できるかは謎ということで・・・
だいいち「建築の力」という言い方が既に建築を人格化しているわけですから、言い訳のしようもない。わはは。
■伊勢神宮で考えたこと
まずはじめに、建築が持つ力の例として、私の「建築の力実感体験」の例をあげましょう。
伊勢神宮が遷宮をした時ですから、もう十数年前。伊勢神宮の神様が移った後の、いわば旧宅の方を見学したことがあります。神様がいなくなっても、奥の奥までは入れませんが、普段は宮様だけが入れるという空間にお邪魔しました。その時に、やっぱり神様はここに住んでいたのだと、素直に納得してしまったのです。普段は、無神論とまではいかないまでも信仰心の薄い私ではありますが、その時だけは「ふーん。神様ってホントにいるんだ、、、。」と、感じたものです。
これが空間の力、『建築』の力なのかな? とその時、漠然と感じたことを覚えています。
(実は、ここで取り上げたのが宗教建築であることが、話を複雑にしていることは承知なのですが、とりあえず他に適切な例を思いつけません。)
さて、 『建築』の力を議論するにあたって、伊勢神宮のような大きな存在を相手に、真正面から力づくで「大文字系」の議論をしても、それは私の手に余ることは目に見えています。そういう作業は直球勝負の豪腕投手に任せて(おいおい、人に任せるんかいっ!)、私は、少し方向転換して、もう少し私のやり方で『建築』の力にアプローチしたいと思います。 変化球投手の登板ということで、、、。まず「建築に力があるなどと思わない方がいい」という点について、私の思うところを述べます。
■建築は本当に「とるにたりないもの」か?
「『建築』に力があるなどと思わない方がいい」という言い方があります。(Googleで「大文字の建築」を検索すると、そんな話ばかりがヒットします。お試しあれ。世間的には「大文字の建築」は終わったと言われています。前回のコメントでもご指摘いただいた通りです。)。前回注記で触れた「オウム真理教のサティアンとともに「大文字の建築」は崩壊した」というような言い方がそれです。しかし、私に言わせれば、この言い方は、行き先(主題)を見失った者の言い訳に聞こえます。「主題を探すという主題」に疲れ、「そもそも主題なんか無いんだ」なんて言うのは、ゲーム盤を引っくり返して勝負そのものをなかったことにするようなやり方で、私はそこまで開き直れない。それは、「全ては差異の戯れだぜ。」と言ってしまうのも同じことです。
■私の腑に落ちないこと
私は、hiraさんの言うように、建築を「とるに足らないもの」と言ってしまった瞬間に、自分の中にわき起こる「じゃあ、お前さんの作っているのは何なんだ?」という疑問と対峙できなくなってしまうのです。私にはとるに足らないものを作っているわけではなく、戯れているわけでもないという確信がある。
これは前回も述べましたが、設計者として、施主に向かって「あなたが作ろうとしている建築なんてとるに足らないものです」とか「差異の戯れなんですよ」などと言えるでしょうか?少なくとも現在の私には言えないし、おそらく未来永劫私には無理です。
別な言い方をすれば、『建築』は記号であるまえに、まず実体としての建物であるという点をスキップした議論をしていても、実際のところ私は救われないのです。
という訳で、私の主題探しはまだまだ続きます。
■私の『建築』生活のきっかけとなった本
ここで、私が『建築』を目指すきっかけになった1冊の本を紹介します。これは、私の廻りではいささかマイナーな1冊で、タイトルを「残響2秒―ザ・シンフォニーホールの誕生」といいます。これは、大阪のザ・シンフォニーホールの建設を描いたドキュメントでした。残念ながら今や絶版ですが、一般にはそれなりの反響があった本なので、大きな図書館に行けば置いてあるのではないでしょうか(神戸市中央図書館に1冊ありました。現在貸出し中)。その内容については私が語るよりも、ここに丁寧な説明がありますので、そちらに譲ります。記憶を頼りに一言だけ添えれば、私にとってこの本は、残響云々の話よりも、建築が大変多くの人々の手を経て出来上がるのモノだということを克明に描いた好著だと思います。多くのプロが関わって初めて一つのモノができていく様子は、私にとっては大変な興奮でした。
高校時代にこの本読んだことをきっかけに、私は、その後の人生の方向をほぼ決定しています。この意味でも『建築』は人の人生を変える力がある、と言えるかもしれません。(いやいや、この場合は1冊の本の力と言うべきですね)
■『建築』行為の楽しみ
さて、こうしたきっかけから始まって、今や建築設計を職業としている経験から、建築の力を考えてみます。設計の段階で、施主あるいは建物を実際に使う皆さんと協力して、どんな姿形の建物を作って行こうかと考えるのは、とても楽しい作業です。一方、建設の現場で、多くの人々が協働でモノを作り上げていく興奮と、求めた建物ができていく喜びは何ものにも代えがたい。そして、これらの喜びは、私が「建築でメシを食って」行くための原動力になっているのです。これは『建築』の力と言ってもいいですよね?
そして、こうした感動を通じて、建築は確実に施主やユーザーや作り手、それからこれらの人々の廻りの人の人生に大きな影響を与えている。これも『建築』の力と言って間違いではないでしょう。
このことは、今動いている現場についても同じことで、現場の監督や職人さんたちのプロフェッションによって、機能的で、美しく、地域に根ざした建物が建っていく、その喜びは、本当に何ものにも代え難い。『建築』には、モノを創造する人々(人、ではなくて人々なところが大事)を突き動かす何かがあるのです。
これも建築の力だなあ。と思います。
■コミュニケーションの道具としての建築
「建築の力」などという言い方が、話をえらいややこしくしていますね。今、私は、私が強調しようとしているのは、コミュニケーションの道具としての『建築』行為という考え方なのではないかと気づきつつあります。つまり私は、建築というモノを創る行為を軸としたコミュニケーションをこそ楽しんでいるのではないか。そしてそれが世の中を変えていく可能性を持っているのではないかと思っています。そして、創られた建物を通じて、私たちのコミュニケーションは、きっと建物の命が続く限り続いてゆくのです。
このコミュニケーションの道具としての『建築』については、建築は世の中をかえうるか(3)にてお届けする予定です。(だからいいのか、そんなこと言って、、)
で、結局
どっぷり浸かっているいるのは私だったか
と気づきました。
いや、ちょっと話はそれるんですが(笑、森の家、美しいんですよ。先日現場に行った帰りに、車窓の風景を見ながら「いやあ、森の家ってきれいよなあ」を連発して後輩に笑われました。掛け値、はったり、謙遜なしに、純粋にきれいな建物になりそうです。これから内外壁の仕上工程、フォルムは既に美しいので、これを殺さないように進めたい。
以上、あまりに支離滅裂なので、今回はまとめ付きにします。
■まとめ
1)世界を変える程かどうか分からないが、力を持つ建築は確かに存在すると信じる。
2)私は「主題を探すという主題」を捨てられない。
3)『建築』行為にはモノを創造する人々を突き動かす力がある。
4)それは『建築』行為を媒体にしたコミュニケーションに潜む力ではないか。
5)森の家は美しい(笑
斯くして、編集長あさみの「建築設計業のアイデンティティ」を通じて、建築の持つ力の話をしてきました。この議論は次に、「建築=コミュニケーションプロセス」という点について検証していきますが、残念ながら、時間と体力が尽きつつあります。長いのもどうかと思いますので、いったんここで止めます。
「建築は世界を変えうるか(3)」がいつ出来上がるか分かりませんが、その機会をお待ちあれ。
■謝辞
この長い文章を書き始めるきっかけとなった、kenchikukaさんに感謝します。少し自分の頭が整理できました。時々こうして自分の考えていることを文章にするのは良いことですね。
せっかくなので、ここで彼女の一言を再録しておきます。
わたしは、建築だけにどっぷり浸かった建築家であるし、建築こそが世界を変えると思っています。
かっこいいなあ。私には言えないなあ。しかし、kenchikukaさんは、やると言ったらやるんだろうな。そういう人だということが文面からひしひしと伝わってきます。私もがんばろー。
2004 11 05 10:21 午後 [31特集記事「建築の持つ力」] | 記事 | コメ (5) | トラバ
2004.10.19
建築とはなにか—建築は世界を変えうるか(1)—
ユニバーサルな視野で建築を外側から見つめ直す。世の中に必要なものは、本当は何なのかを見つめ直す。そういう作業が僕たちに求められているのだと思っています。軸足が建築だけにどっぷり浸かっている(って、そういう人はめったにいないんだけど)ケンチクカ達に見えないものが見えるような人でありたいです。今日はちょっと固めのお話になりそうです。
───あさみ
親愛なるあさみさんと意見を異にします。わたしは、建築だけにどっぷり浸かった建築家であるし、建築こそが世界を変えると思っています。ただ、仕事をする上で対外的に、ほかの建築家とはちがうように振舞える、ということなのです。そしてこれがわたしの必殺技になりうるのです。
───kenchikuka
わたしのお気に入りブログ「文系で建築家で起業家の女の子の日記」でのやりとりから
私の敬愛する建築家であるkenchikukaさんの一言から、いろいろ考え込むことになりました。彼女は、相変わらず、確信的に恐ろしいこと(決して悪い意味ではない)を言ってのけます。今のところ本紙編集長は、彼女の確信に対抗するだけの議論ができるとは思えません。
しかし、編集長なりに、この一言に影響を受けいろいろなことを考えました。「建築って何なんだ?」、「建築のもつ力」、「建築の目的について」などなど。そして、とりあえず考えたことは書き留めておこうと思いました。結論なんか出そうにない話ではありますが。おつきあい下さい。
彼女の「建築こそが世界を変える」という確信は、建築を愛する心から生まれるのだと思います。つまり、建築のもつ力を信じていればこそですね。(ここで、こんなことを確認するのは、私自身が建築を愛してないとか信じてないという意味ではないですよ。)そこでまず「建築のもつ力?」について考えたいと思いますが、その前に「建築とは何か?」という話を整理しておかなくてはならないでしょう。
唐突ですが、このシリーズ(今決めた)は、3回のシリーズにします(そんな事を決めると後悔しそうだ)。
第1回 建築とは何か
第2回 建築のもつ力について
第3回 建築の目的について
「建築こそが世界を変える」というときの「建築」というのは、ある特定の建築物ではなく、私たちが「建築」というときに喚起される特殊な存在であることは前提としていいでしょうか?。ここで磯崎センセイの「大文字の建築」などを持ち出すと、話は拡大する一方なんですが、、、。
実は、kenchikukaさんが磯崎をどう捉えているのかについて興味がちょっとというか、かなりある。しかし、「大文字の建築」の概念を使わずに話をしようとして、辞書的語義問題に持ち込んで、またぞろ「全ては建築である」みたいな話にしても議論が続かないですよね。
磯崎さんはまぎれもなく建築の力を信じている人であって、建築に力を取り戻そうとした人だ。しかも、建築にとどまらない、とんでもないまでの博覧強記さでもって、建築を建築たらしめようと考えている人だ(と、私は解釈している)。そういう意味では尊敬する人の一人ではある。でも、好きか嫌いかはまた別の問題だ。彼は建築をやたら難しくした人でもある。実は私としては造形の巧みさにも感心していて、奈良のホールなどで見せた形の扱いなどは、ちょっと他の人にはなかなか真似できないと思う。あれをやれるだけの立場にある、ということも含めてだ。(今書きながら思ったことだけど、彼の設計した建物は良くも悪くも「作品」であると思う。)
しかし、申し訳ないが、最近の氏の活動については寡聞にして知らない。
一方で、「大文字の建築」はオウム真理教のサティアンとともに死んだという言い方もあるけれど、これもいかがなものか。一部分の世間を切り取ってそれを騒ぎ立てたところで、私たちが得るものなどない。少なくとも建築の明日を拓く議論ではないだろう。
そういう訳で、今回は、私の話をしてお茶を濁そうと思います。(濁すんかいっ!)
私たちの世代(と言って、責任を集団に負わせることはやめましょう)もとい私は、「建築の解体」(これまた磯崎さんだ)のあとに建築を学び、学校では全ては差異の戯れにすぎないとか、構造主義だとか、よくわからない言説に巻き込まれて育ってきました。
しかし、社会に出てすぐに直面したのは、そこに建物を建てねばならないという厳然たる仕事と、その建物が完成するのを待つ施主、という現実だったのです。そういう施主に対して「全ては差異の戯れににすぎないのですよ」などと言い放つだけの度量のなかった私は(いやいや、今でもないですけど(笑)、業務として「建築」を続けていくために、自分が「建築」に携わる上での何らかの確信が欲しかったのです。当時の私の状況は、まさに「主題を探すという主題」(これまた磯崎さんですね。どうも私は磯崎さんから逃れられないらしい。)を抱えているという状態でした。
と、書いていて恐ろしい(というか恥ずかしい)ことを思い出した。以前にどうも似たような話をしたことがあるんだった。「20世紀建築研究10+1別冊」(INAX出版,1998年)に、私が「主題を探すという主題」と、どう折り合いを付けたのを書いております。今読むと、若気の至りも入っていて、どうも気恥ずかしいけれど、今考えていることは、ここに書いたことと、本質的には変わりませんから、もし興味があればお読み下さい。私は2ページしか書いていませんが、先輩の松原さんが磯崎新のことや、C・アレグザンダー、ルシアン・クロール氏のことを書いています。そっちもおすすめです。実は他の人のは読んでない(さらに恥)。
本の宣伝じゃないけど、少しだけ引用しておきましょうか。
ぼくらの不全感と、始まって、象設計集団の計画の土着性の話に話が及び、最後は
建築は解体されて久しい。ぼくらは時代の空気としてそれを肌で感じている。全ての価値が相対化されつくし、すべてデザインが差異の戯れでしかない時代に建築を学んだぼくらにとって、現在の建築をめぐる混沌はすでにア・プリオリなものとして存在している。ぼくらにとっては、混沌がすべての始まりである。この混沌から生まれる建築的不全感から逃れるために、この混沌が何に起因しているのかを考えることから作業を始めたい。建築的確信を得られないままに建築に携わることはおそらく不可能だからだ。
───浅見雅之 「20世紀建築研究10+1別冊」の「建築における土着性をめぐって」より※一部引用時に改稿
ゆえにこの新しい物語が、近代と同じ道筋を辿っていずれ崩壊するだろうという予測は可能だ。しかし、この計画的土着性という物語が、地域や住民を計画手法に取り込んでいる限りにおいて、言い換えれば、場所の同一性と個人の同一性の獲得をプログラムに内包しているという点において、この物語が早晩崩壊することはないと確信できる。100の地域には、100の物語、1000の個人には1000の物語が潜んでいるに違いないからである。と、終わっています。簡単に言えば「〜主義(イズム)」みたいなイデオロギーは、簡単に消費され、早晩廃れてしまう可能性があるけれど、たくさんの地域や個人に根ざした建築のあり方というのは、なかなか廃れそうにないということです。私の建築に関する理解は、これが基本になっています。自分で自分を振り返ってみて呆気にとられるほど単純な考え方ですね。
───同上
当時、私は、私にとっての「建築」の存在を信じたい一方で、どうも現実社会では、それを実現させる機会を持ちえないというギャップに苦しめられていたように思います。現在でも、この問題をきちんと消化するには至っていない訳ですが(書いていてだんだん分かってきました)、私は知らず知らずのうちに、この問題をうまく回避するずテクニックを(良くも悪くも)身につけてしまったようです。少なくとも消火不良に苦しんでいた時期は超えました。
要約すれば目の前にある仕事という現実を直視せずに「建築」を論じたところで仕方がない。それよりも、直面した課題に最良の解答を出し続けることの積み重ねでしか「建築」の実現はありえない。という結論に過ぎないのですが、、、。そして、「それで本当に納得しているのか?」などと正面切って聞かれたら、きっとあたふたと、みっともない姿をさらすことになるのでしょう。要するに世渡りの方法を身につけただけのことなのかもしれませんね。そして、もしかしたら、それはギャップでも何でもなくて、単に私が世間知らずだったからなのかも知れません。
これで少なくとも、私にとっての建築とは何か、が明らかになってきたように思います。(え?わからない?んー。そうか、、、。確かに分からないかもしれない。)要するに私にとって「建築」とは一方で「業務」であり、その一方で自己実現の手段であるのです。建築設計という行為を通じて、どのような自己実現が可能であるかは議論のわかれるところでしょう。けれど、少なくとも、当時の私にとって、それは火急の問題だったのです。
私の自己実現の方法は建築にしかなかったのかについての検証を行わないことには、議論そのものが成立しないかもしれません。しかしそれを言い始めたら、もっともっと複雑な話になってしまうでしょう。今、それをやるのは止めておきます。
さて、建築とは何かについての私の見解は、今のところ以上です。第2回は「建築」のもつ力について検証していきます。
2004 10 19 11:26 午後 [31特集記事「建築の持つ力」] | 記事 | コメ (6) | トラバ

