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2005.05.07

景観まちづくりと歴史的建造物保存

兵庫県内のとある場所で、景観まちづくりに関して講演をすることになりました。日頃思っていることや、これまでやって来たことなどを含めて話をしようと思っています。講演そのものは一般の人向けではないので、申し訳ありませんがご案内はできません。その代わり、せっかく学んだことは皆さんにもお裾分けを、などと考えています。

特に現在では、景観法も既に施行されているので、これを避けて通るワケに行かず、景観法については、これを機会に(重い腰を上げて)景観法をきちんとおさらいしておくことにしました。あまりいい加減なことは言えませんしね。で、せっかくなので、皆さんに景観法をレビューしようかと思っていますが、それはまた後ほど。

実は、景観まちづくりというのは、一般には「歴史的まちなみの保存」と同義であるかのように思われているフシがありますが、そんなことはないと思っています。良好なまちなみ景観を創り出すという視点に立って考えれば、それは歴史的なまちなみでなくても良いはずです。
というあたりの話をしなくてはいけないなあ、と思いつつ久しぶりに拙著修士論文である「歴史的建造物群保存論序説」をめくっていたところ自分の文章ながら、なかなか面白いことを書いているなあと思ったので、ここで皆さんに披露しておこうかなと思います。

今、私は建築設計事務所で働きながら、建築設計を行うかたわら、あちこちの町でまちづくりや景観づくりのお手伝い(コンサルティング)をさせていただいています。実はそのベースは修士論文のあたりにあるのだなと「三つ子の魂」なのね、と思ったりしています。

以下は修士論文からの抜き書き(一部加筆修正)です。最初に補足しておきますと、当時の私は、まちなみ景観づくりのような広いテーマで考えることができず、歴史的建造物保存にテーマを限定していたために、どうも消化不良を起こしていました。

常に書き換えられ続けるものとして保存の論理があり、これが共通了解として市民権を得ていくためには、この論理は「イズム」の形ではなく、人々の”快”を描き出すという行為を通じて説明されるべきである。それは論理と論理、イズムとイズムの対立などではなく、常に書き換えが行われる運動として展開されるべきものだろう。

この運動を通じ、”快”を描き出して共通了解を書き換えていくという、人の価値判断基準の形成システムを理解することが重要なのではないか。

それは価値観を固定するものではあり得ず、また価値判断を放棄することでもない。そして「市民全てが真剣に考えるならば世の中は必ず良くなる」などと信じる楽観主義でもない。

それはもはや論理の形ではなく、運動の形で世に現れるべきものであろう。さらに、それは、学問的価値や美術的価値を超えた”快”という形で共通了解を形成するものとなるだろう。

そして、この時、主客を超えた(※)前近代の価値判断に、我々が参照すべき手法が存在するのではないだろうか。

※前近代における、「もの」の中に人格を認め全ての「もの」に神が宿るというような考え方は、主体を客体の中に投げ入れ、客体に主体を映し見るという、主客を超えた価値判断だった。という文章が引用文のはるか手前に書かれています。この部分はこのことを言ってます。

解説が必要だった最後の一文に関しては、なんとなく若気の至りのような気もしますが(恥。
「まちなみ」とか「景観」を考える時、それは「価値観の固定=イズム」ではなく、何かみんなが「これがいいよねえ=”快”」を書き換え続ける運動として展開されるべきだというのは、10年以上経った今でもそう思っています。そのことは、歴史的建造物保存という視点から言い換えると「今、生きているこの瞬間も歴史の一部である。」ということをも含みます。

いやあ、変な若者(そりゃ自分ダロッ)の文章を引用したら、ワケわかんない文章になっちゃいました。ということで今日のところはここまで。

そのうち景観法をまじめにやろうと思います。

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