今日の内田先生
エントリーのタイトルは「家の記録の妄想」さんのところのマネである。ちょっとやってみたかった。
ご存じない方も多いが、私は「こういうこと」をやらせるとうまい人間なのである。 「こういうこと」というのは、話者と聴衆のコヒーレンスを合わせる、ということである。
つねづね申し上げているように、コミュニケーションの成立にとって「コンテンツ」は副次的な意味しかもたない。
「これはパロールだ」ということを聴き手が実感すれば、そのとき私がどのような意味不明のことばを口にしていても聴衆はそれを「パロール」として聴き取ることができる。
──「内田樹の研究室」050405の記事より引用
編集長がひそかに、かつ勝手に敬愛申し上げている内田先生が、また、ものすごく本質的なことをおっしゃっているので紹介させて下さい。場面は、教務部長になった内田先生が、新入生に聖書の一節を読むというところです。
私たちが普段話している言葉が、いかにイイカゲンな日本語であるかは、何でもいいから自分の話しているところを3分ほど録音して、それをそのまま文字にする作業をやってみれば、誰でも簡単に分かります。文法はぐちゃぐちゃだし、主述の対応はとれていないし、文の途中で主題が変化していることがあるばかりか、中には何を言っているのか全くわからないものまで出てきます。(えっ?あなたはそんなことないですか?そりゃすごい。でも、もしかして内田先生ってそういう人かもしれない、、。お話を伺ったことはありませんが、、、)
「パロール」という言葉の意味を私は知りません。(以前、哲学の入門書で読んだけど忘れました.確か「ラング」と「パロール」というセットでなかったか? ※1)おそらく文脈からいって「言葉によって表される内容・意味」といったことではないでしょうか。だとしたら「ラング」は「言葉そのもの」と解釈すればいいかなっと。そして、この言葉そのもの=ラングのことを内田先生は、引用部分の中でコンテンツと呼んでいると理解することができます。(無責任にも、今日は何も調べずに書いています。間違っていたらお知らせ下さい。※2 この間違いについて追記)
編集長は、講演なりコンペのプレゼンなりで、多くの人の前で話す機会を与えられることがしばしばあります。また、そういうことが嫌いではないため、いきおい、そういう機会が増えることになる。こういう立場にあって、自分が発信したメッセージが、きちんと聴衆に届いているのかどうかが気になるというのは人情というものでしょう。そんな興味から、他の人の講演会などでも、そういうところをしっかり観察してしまいます。そうすると分かってくることがある。
内田先生の言うように、話している内容というのは、あまり聴衆にとって関係ないことが多い。長い話の中に10も20も盛り込んだところで、聴衆には届かないし、記憶もしてもらえない。それよりも、内容はともかく、何を伝えたいのかをはっきりとさせることの方がよほど大切なのだろうと。
「よくよく聞くとなにを言っているのか分からないけど、何を考えているのかは分かった気になる」「実際にはよく分からないけど、共感だけはできる」(矛盾しているようですが、、、)というのが、実は理想なのかな、などと考えてしまいます。内田先生の論考には及びもつきませんでしたが、普段そんなことを考えてたもので、、、。
しかしそんなことでいいのか、編集長。それではほとんど新興宗教の教祖ではないか。
ともあれ、
10分しかないプレゼンなんて嫌いだ。自分でも何を発表しているかわからん。
(なんかヤツアタリ気味。何かあったラシイ)
話の内容は重要じゃないということに関しては「メラビアンの法則」というのもあります。
http://cvoff.cocolog-nifty.com/blog/2005/02/post_3.htmlなどを見てみて下さい。
※1 ついでに、無い知識を披露すると「シニファン」と「シニフェ」っていうのが、隣に書いてあったと思う、、、。自信ない。
※2 ラングとパロールについてはこのあたりを
http://www.nihongokyoshi.co.jp/manbou_data/a5510010.html
http://www.kiwi-us.com/~shibayan/shuron/1-3.html
どうやら、編集長の理解はだいぶ間違っているようです。
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コメント
難波先生の日記でも出ていました。パワポのコンテンツがスペクタクルになればなるほど、議論が起らなくなる、という矛盾。
同じような内容で院生の修士論文公聴会で、情報系の先生と対立したことがあります。
私の考えでは、コミュニケーションは「情報のやり取り」だけでなく「感情のやり取り」がある。実のところは「感情のやり取り」がモノづくりにはとっても重要。ワークショップにもとっても重要だと思ってます。
さらに言うと、コミュニケーションには、言語化できるものと出来ないものがある。スキャン画像やテキスト文では伝えられない、パトス(情念)がやり取りされる。それを見過ごしてコンピュータ支援のデザインプロセスのシステム設計するなんて、欠陥だ!と対立したわけです。
観客は、コンテンツではなくその人を見ている。その人が信頼するに足りるか、を判断している。コンテンツすべてを自分の頭で判断しているわけじゃなく。ワークショップって、そうですよね? 建築家の仕事って、じつはそうですよね?
投稿: hira | 2005.04.07 23:04
ああ。そういうことです。相変わらず上手にまとめますね。
そうなんです。観客は「人」を見ているのです。パトスがあふれ出るその姿を見ているのです。これは一対一で行われる施主打合せなんかでも同様です。
こうやって、あちこちで仕事をさせていただいていると、実は、文法的に正確に説明することよりも、「思い」を「誠実に」伝えることこそが大切なのだと気づきます。
ワークショップってそういうコトです。
ケンチクカの仕事って、実はそういうコトだと信じます。
【追記】
そういう意味ではうちの団長は本当に天才だと思います(笑
ほんとほんと。(「(笑」を付けたらあかんやんか。)
投稿: あさみ編集長 | 2005.04.08 10:59