当事者主権〜施主当事者学のススメ〜
障害者の自立とは何か。24時間介助を受けても、自立していると言えるのか?
自立生活運動が生んだ「自立」の概念は、それまでの近代個人主義的な「自立」の考え方──だれにも迷惑をかけずに、ひとりで生きていくこと──に、大きなパラダイム転換をもたらした。
ふつう私たちは「自立」というと、他人の世話にならずに単独で生きていくことを想定する。だがそのような自立は幻想に過ぎない。どの人も自分以外の他人によってニーズを満たしてもらわなければ、生きていくことができない。(中略)だれかから助けを受けたからといって、そのことで自分の主権を侵される理由にはならない。
(中略)だれからも助けを得ない人は、豊かな生活を送っているとはいえない。障害をもった人が、必要な助けを必要なだけ得られる社会は、どんな人も安心して生きていける社会だ。それは障害の有無にかかわらず、私が私の人生の主人公であることを貫くためである。障害者運動から生まれた「自立」の概念は、非障害者を標準にできあがった、それまでの「自立」観を、大きく変えた。
(中略)最後まで自立して生きる。そのために他人の手を借りる。それが恥ではなく権利である社会をつくるために、障害者の当事者団体が果たしてきた役割は大きい。
──「当事者主権」(中西正司・上野千鶴子著、岩波新書、2003年)序章より引用
さて、復帰第2弾はここ数日で呼んだ本の中から「当事者主権」(中西正司・上野千鶴子著、岩波新書、2003年)を取り上げてみました。なかなか刺激的な内容でした。
要するに、人に頼らずに生きていける人なんかいない。誰だって人の世話になって生きているのだから、障害を持つ人達も頼り方の程度問題で、何も引け目に思うことなんかないじゃないか。というのが引用部分の主旨ですね。
自立生活運動とか、当事者団体とか、障害者運動とかいう「運動」と、上野先生の組み合わせが、どうも「イズム」感が漂う感じで、いかがなものかと(正直なところ)思っていました。そういう感がなきにしもあらずではありましたが、こうした内容の本を書くにあたって、そうした「運動」あるいは「闘い」の歴史なり経緯なりは避けては通れないものだし、、。曰く、
当事者の権利を擁護するにはアドボガシー(権利擁護運動)が欠かせない。
ということで、編集長、割と素直に読みました。
中西氏の自立生活支援センターの歴史についても、そのご苦労を知るに、のほほんと「ユニバーサル」の議論なんかしてていいのか?などと思わないでもありませんでした。(ま、それはそれで重要なことだと編集長は思うのですが、、)
ユニバーサルデザインについては、この本はこう言います。
「仕事と家庭の両立は難しい」というのではなく、「どのような条件が整えば男にとっても女にとっても、育児が職業継続の障害とならないで済むか」ということを考えよ。そうすることによって社会の設計の上で「ユニバーサル・デザイン」を構想することが可能である。と
みんな同じなはずじゃん。たまたま車いすが不必要なだけ、たまたま両手が自由に使えるだけの人達が、そんなに偉い訳じゃない。ユニバーサルな考え方の根本はそこから始まるのだろうと編集長は考えます。
さて、とかくハッとする言葉の多かったこの本の中で、編集長が「うーん」と膝を打った場所がありますので、長くなりますがそれを引用して、今日はおしまいにします。
専門家主義への対抗
当事者が「自分のことは自分で決める」というとき、まっさきにあがるのは「主観的」という批判である。その反対が「客観的」であり、その判定をするのが専門家や第3者であるとされてきた。当事者主権の考え方は、何よりもこの専門家主義への対抗として成立した。
専門家とは誰か。専門家とは当事者に代わって、当事者よりも本人の状態や利益について、より適切な判断を下すことができると考えられている第3者のことである。そのために専門家には、ふつうの人にはない権威や資格が与えられている。そういう専門家が「あなたのことは、あなた以上に私が知っています。あなたにとって、何がいちばんいいかを、私が代わって判断してさしあげましょう」という態度をとることを、パターナリズム(温情的庇護主義)と呼んできた。パターナリズムとはパーター(父親)という語源から来ており、家父長的温情主義とも訳す。夫が妻に「悪いようにはしないから、黙ってオレについてこい」とか、母親が受験生の息子に「あなたは何も考えなくていいのよ、お母さんが決めてあげるから」というのも、パターナリズムの一種である。
──「当事者主権」(中西正司・上野千鶴子著、岩波新書、2003年)序章より引用
そして、このパターナリズムは医療の世界で横行してきたが、インフォームドコンセントによって医療モデルがくつがえされ、医師の専制を医師と患者による共同の意思決定に変えてきたと述べています。
なんかいつも編集長が似たような話をしていますね?この話、専門家をケンチクカに、当事者を施主に置き換えても全く同じことになってはいませんか?どうなんだどうなんだ?
良識あるケンチクカ諸氏のご意見をお待ちしています。
| 固定リンク
「21社会面1(トイレ・ユニバーサル)」カテゴリの記事
- 消費される「ユニバーサルデザイン」とバリアフリー新法のこと(2007.01.26)
- ユニバーサルワイン(2007.01.13)
- 珍しい点字ブロック(2006.10.20)
- 座ってキッチン(2006.07.10)
- ダイアログ・イン・ザ・ダーク(2005.11.28)


コメント
こんにちは。この本は読んでないことをまず、明記しておきます。そのうえでの反応ってことで。
まず、24時間介護を受けてる人の自立について。
人として文化的に生きるのは当然の権利であるのであるから、24時間介護でも、誰にも後ろめたさを感じる必要はない。介護を受けてはじめてプラスマイナスゼロの地点に立てる。自立以前の話。
障害者の自立とは、前提の介護を受けられる権利が担保されたうえで、自分自身の幸福のための行動を自分の責任で行なえること、だと思います。
ユニバーサルデザインの話は、ちょっと変で、これはユニバーサルデザインが何か?というはなしではなく、よりメタレベルな解決を模索することを考えんかい!ってことだと思います。これは何か問題を解決する時の「倫理」の問題だとおもいます。(「環境倫理学のすすめ」、加藤尚武 ISBN 4621070347)
パターナリズムですが、こいつは厄介で、理想は各自が自己決定していけばいいんだけど、「民衆」はそんなこと望んでいない、ってことが見えてきちゃった。望んでいるのはごく一部。その他大勢はわざわざ自分で考えるのはめんどくさい、でも押しつけがましいのはヤダ、と思ってる。
で、現代都市はそれが巧妙になってきた。「自分で反応して行動している」つもりが、「巧妙にプログラミングされている」世界・・・・
投稿: hira | 2005.02.17 01:17
ああ、なるほど「自立」に関してはhiraさんの方が一歩踏み込んでいますね。「当事者主義」が自立だとしているところは±0なんですね。そりゃそうだ。
コメントありがとうございます。
ユニバーサルデザインについては、編集長の頭の中で、まだまだ整理が必要だと思っています。ただ、まちづくりとか建築設計だけで語られていても、世の中は変わらないような直感はある。そういう意味でも、神戸市が長田区で進めているようなUD研究会やら、子供たちとUDを考えるなどという、地道なところから始めているのは、評価できると思っています。
パターナリズムについては、編集長、「民衆」の意識について、同じところに踏み込んでしまって、それに触れるとオソロシク複雑な話になるので、あえて踏み込みませんでした。
ただ、この件に関しては編集長はちょっと別な実感を持っていて、もう少し踏み込んでみてもいいのではないかと思っています。
世の中には「わざわざ自分で考えるのはめんどくさい」と言いつつも、「自分で考えないと良くならない」と思っている人たちが増えているのは、実感としてあります。
そういった人達がこれから「わざわざ考える」ことの大切さというよりも、楽しさ(苦しいこともあるけれど)、充実感を提供できる主体(たとえばそれは役場の担当者であっても、まちづくりコンサルであっても、いいんですが、あるいはまちなか在住のへんなおっさんであってもいいんですけどね)存在すること、そういう人達を育てることが、パターナリズム脱却の糸口なのだろうと思っています。(いや、脱却しなくてはいけないのかという問題もあるけど、私は脱却したいなあ)
投稿: あさみ編集長 | 2005.02.17 18:15