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2005.02.15

学校のユニバーサルデザイン

しばらく休刊させていただきました。再開します。本日は〆切に追われる身として、明日〆切のコンペで悩んでいるところからお送りします。題して「学校におけるユニバーサルデザインとは?」

世の中の製品は、大人が使用するものも子どもが使用するものも、大人が作っています。
教材のように子どもが使う製品には、大人が考え及ばなかった不便さがあるのではないか?
──「学校におけるユニバーサルデザイン」内田洋行のサイトから引用

 誰もが(あるいはできるだけ多くの人が)快適に暮らせる社会を物心両面から、ハードソフト両面から考える。それがユニバーサルな社会をつくるのだろう。というのが編集長の基本的な考え方です。言い方をかえれば、「誰もが快適」という要素があれば、それは全てユニバーサルな考え方だといってもいいと思います。ゆえに、「誰もが心地よく住み続けたいと思うまちをつくる」という命題は、十分にユニバーサルであると考えます。ということで、編集長の職能は常にユニバーサルな観点から発揮されていると言っても過言ではありません。

 もちろん、目の見えない人でも普通に使えるように、車いすを使う人にも快適に過ごせるようにハードウェアをデザインすることも大切です。これは、また後のエントリーで取り上げますが、誰だって子供だったのだし、誰だって高齢者になる。誰だって突然車いすの生活をしなくてはならなくなるかも知れない。生きているということはそういうことですよね。だとすれば、そのうちの体に障害のない成年男子をスタンダードとすることは、どう考えても不合理です。
 誰もが使える、できるだけ多くの人が快適に過ごせる世の中をつくっていくことが大切であるのは言うまでもありません。

 だから、子供たちが使う施設においては、子供たちの視点から、建物のあり方を考えて行く必要がある。もしかしたら、子供たちにデザイン参加してもらった方がいいかも知れない。ユニバーサルデザインが、利用者の立場からハードやソフトをつくることを目的としているのなら、そこには利用者の参加が確保されていることが必要であるという考え方ですね。ユニバーサル社会づくりと、参画と協働による地域づくりのあり方がいつでもシンクロするのは、ここに理由があるといえるでしょう。

 さて、ここで問題があります。

子どもにとって不便なものや危険なものをすべて取り除いてあげることは、必ずしも子どものためになるとは考えていません。不便さや危険から子どもたちが学ぶものを阻害することのないように、ユニバーサルデザインにどう取り組んでいくかが大きな課題です。
──「学校におけるユニバーサルデザイン」内田洋行のサイトから引用

 そう、確かにそうですよね。ちょっと痛い目に会わなければ覚えないことだってある。不便だと思う気持ちがないと誰かが不便だと思っているという事実に思い至ることができないということだってあるかもしれない。学校でユニバーサルデザインを考えるにあたっては、どうもそこのところが難しいポイントになる。
 不便のないように、痛い目に会わないようにと配慮することは大切です。しかし、もしかすると過保護にしすぎて子供たちをスポイルすることになりはしないか?そういう疑問にブチ当るユニバーサルデザイナーはきっと少なくないと思います。本当はどうなんだ?

 学校においては、最も大切なのはハードウェアじゃなく(いやもちろんハードも大切だけどさ)、ユニバーサルデザインの考え方を子供の頃から、ごく当たり前の考え方として身につけられるような、そんな教育のプログラムではないでしょうか。おそらくユニバーサルな社会はそこから始まるのだろうというのが、今の編集長のとりあえずの考え方です。(いやいや、疑問が解決していないのは分かってますってば。)

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21社会面1(トイレ・ユニバーサル)」カテゴリの記事

コメント

こんばんは。お久しぶりです。【BLUEPRINTS】のDRAFTERです。
学校におけるユニバーサルデザイン、あさみ新聞の記事を読むと、確かに難しい問題と思えてきました。まずは大人と子ども、という点での問題。そして子供の頃からユニバーサルデザインについて考えさせるという点では障害を持った人やお年寄りなどへの視点は欠かせない。難しいです。
どうもユニバーサルデザインとかの話になると、想像力に欠けているのではないか、と思わせることが多いです。「とりあえず」エレベーターを設置しとけばいい、「とりあえず」障害者用トイレ(最近は「みんなのトイレ」ですね)を設置しとけばいい。そういうのって残念です。どこで困るだろうか、どういう問題を抱えるだろうか、そんな風に想像してみれば、ユニバーサルデザインに限らず、いろんな問題は少しずつでも解決に向かうと思うのですが。
話があまり関係ない方向に行ってしまってスミマセン。
リンクをはられている内田洋行のサイトでも、ユニバーサルデザインを学ばせる為の教材などがあるようですが、たとえばドアの丸いノブとレバーハンドルを並べて、ドラえもんの手みたいにぐるぐる巻きにした手で開けさせてみるだけでも、分かることはあるのだと思います。
いや、久しぶりなのに支離滅裂な投書になってしまいました。スミマセン。

投稿: DRAFTER@【BLUEPRINTS】 | 2005.02.16 03:09

いえいえ、支離滅裂(とも思いませんが)大歓迎です。

えーと、DRAFTERさんにはおそらく釈迦に説法ですが、バリアフリーとユニバーサルデザインの違いを世間ではあまりにも簡単に考えている向きがありますよね。

「これじゃ車いすの人が困るから、こうしておこう」ということと「これだと誰かが使いづらいだろうか?」と考えながらものを作ることは、同じようでいて全く違う話ですね。スタンダードをどこに設定しているかというのが考え方の根本で違っている。

しかし、必要なのはDRAFTERさんのおっしゃるように「想像力」であるという点では同じ問題かも知れません。エレベーターもみんなのトイレも結構だと思いますよ。それはそれでいいんです。いさかか解決策として定式化している嫌いはありますけどね。

さらに混乱を深めるモノイイをさせてもらうなら「段差なんて、周りにいる人が助けてあげたらいいじゃん」という意見にも一理ありそうなところにも引っかかってみたいですね。この問題はまた別エントリーで考えます。

いや、こちらこそ支離滅裂ですね。すみません。

投稿: あさみ編集長 | 2005.02.16 03:40

せっかく寝付いたのに5時前の地震で起きてしまいました。もうすぐ仕事に向かいます。よくわかんないコメントだったのにレスありがとうございます。

>>「段差なんて、周りにいる人が助けてあげたらいいじゃん」という意見にも一理ありそうなところにも引っかかってみたいですね。

これってすごく難しい問題だと思うんです。その通り!と思う一方、そこまで社会として受け入れられる体制であるのか、とも思います。周りの人に助けてもらうことを、あまり気持ちよく思わない人もいるかもしれない。自立ということはなんなのか、なんて考えてしまいますね。

建築好きの僕としては、建築における体験の差ということも気になります。階段でアプローチすることによって劇的な空間体験が得られるのに、エレベーターだとつまらなかったり。

そうでなくてもエレベーターに乗るためには遠回りしなくてはいけなかったり、車椅子用トイレはあるにはあるけど1個だけで遠かったり、事情は理解しつつも、やはりなんだか残念です。

また良く分からないコメントですが、これからもこの話題に関するあさみ新聞さんの記事を楽しみにしていますね☆それでは。

投稿: DRAFTER@【BLUEPRINTS】 | 2005.02.16 07:58

復活おめでとうございます。

ユニバーサルデザイン、に少し反応。
以前、某短大でユニバーサルデザインの集中講義をしたことがありました。
それで、付け焼刃で勉強したのですが、
実感を伴うように、ユニバーサルデザインを説明しよう、と思うと難しいですね。

ユニバーサルデザインの一例、として一番説明しやすかったのは、シャンプーとリンスの横のぎざぎざです。
目が見えない人でなくても、シャンプーをするときは皆目をつむるので分かりやすい、と。
工業デザインでは、このようなユニバーサルデザインの設計って考えやすい部分はありますが、建築や都市となると本当に難しいなあ、と思います。
階段などの障害をなくすことによって、老人の方の筋肉が衰えやすくなる危険性がある、という話もあったり。。

役所関係の資料を読んでいても、バリアフリーとユニバーサルデザインの定義が曖昧で同じような意味で使われていたりしますよね。。。

個人的には、気持ちいいデザインで、それぞれに選択肢が設けられていて過ごせるのであれば、同じものを全ての人が選択できなくてもいいのではないかなあ、というように最近は思い始めています。

学生に講義をしていて面白いなあ、と感じたことは、ユニバーサルデザインということを知ったことで、これまで当たり前に見てきた日常の風景の見え方が変わった、と言った学生がいたことです。
そういう風に日常を見る人が一人でも増えれば、それも又ユニバーサルな社会なのかもしれないなあ、とも思っています。

何だかまとまりなくてすみません。。。

投稿: | 2005.02.18 00:47

↑すみません、名前を書くのを忘れて投稿してしまいました。

投稿: akanem | 2005.02.18 00:47

段差を解消するために、2階までに及ぶ長い長いスロープを設けたとして、それは確かに車いすの人が2階まで上がれる工夫ではあるけれど、健常者がそれを使って2階に上がりたいかどうかというのはまた別の問題です。

hiraさんのポリタンコスモで言及されていたことなのですが「障害を持つ人にとって使いやすいデザイン=誰にでも使いやすいデザイン」という、一見分かりやすい公式は、いつでもどこにでも当てはまるものではないのかも知れません。

この2階までのスロープに関して言えば(エレベーターがあったらいいじゃんという話はとりあえず脇におくとして)選択肢としてスロープという方法がありうるという点が重要ということでしょうかね?

そして、そのスロープが、「通ることが実に楽しいようなスロープ」「絶景が体験できる見晴らしスロープ」であったりしたらスロープを通ることでしか得られない価値を得ることができるという意味でhira氏が言うような「車いすに乗っているから楽しめる」ようなものになったりするんでしょうか?

hira氏のトラバで、ユニバーサルデザインの考え方については、かなり整理できたと思います。でも実は、あさみ新聞的には、まだ片付けるべき問題が残っています。

1)「誰かが手伝ってあげたらいいじゃん」問題
2)「スロープって面積くうし、高くつくんだよね」問題

今のところ以上2点を検討する必要があると思っています。他にも問題点を募集中です。皆で考えましょう。

投稿: あさみ編集長 | 2005.02.28 15:01

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あさみ新聞にトラバです。 下の文章では「障がい者」になっているけど、「子ども」でも「お年寄り」でも「へんなおっさん」でもよいです。 1:障がい者にと... [続きを読む]

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