内から考えるか、外から考えるか
プロフェッサー藤森によると世には
「内から考える建築」と「外から考える建築」
とがあるそうな
内部のディテールから始める建築家もいれば
ファサードのイメージから始める建築家もいると
──blog「家について記録。もしくは妄想。」 041128のエントリーより
「家について記録。もしくは妄想。」さんにトラバ。なかなか奥が深い議論ではあります。
かつて似たような話を卒論でやったような気がします。その時は「上から、下から」だったと思いますが、、、。もう一つ思い出すのは、確か松葉一清氏だったと思いますが、丹下健三と村野藤吾を比較して同じような議論をしていました。丹下さんは外から派、村野さんは内から派みたいな区別をしていたような。原典が手元にないのでうろ覚えですけど。
大きなところから考えるのか小さなところから考えるのかというのも似たような区分の仕方ですね。
私は建物の身体性というか、生活感みたいなものは大切にすべきだと思っていて、一時期「ドアノブ」のデザインを丹念にやっていけば、それが建物全体に及んでいって大きな建物になっていく、というような設計ができるのではないかと考えておりました。今でも考え方としては編集長にとって憧れを残す考え方ではあります。しかし、コトはそんなに単純ではありません。
この場合のドアノブは単なる一例にすぎないですが、手に触れる・目に見える・体で感じられる小さなものを積み上げて行けば、どんな大きな建物でも作れるのではないかと思っていたのです。宮脇檀氏が、超高層ビル(だったかな)の設計依頼が来たらどこから手をつけていいのか分からないのでエントランスの床材の選定から始めるかも知れない、といっていたのも似たような(?)ものかも知れません。
ただ、宮脇センセイがそう言っていたとしても、やっぱりコトはそんなに簡単ではありません。建物ってのは外側も内側も重要で、どちらから作るかというような単純な議論でばっさり切ってしまうことには無理があるようです。もちろん宮脇センセイは、そんなことは先刻ご承知なのでしょうが。
敷地を与えられ、予算を与えられた時に、まず普通の設計者が考えるのは、敷地がどんな環境にあるのか、周囲の状況とどう呼応するかという問題と共に、建築法規上と予算上から、その敷地に最大限どれだけの大きさの建物が建てられるかということだと思います。その上で、施主の希望をどれだけその大きさの中に詰め込めるかということを考えて行くというのが普通の手順でしょう。
施主の希望のままに、ウォークインクローゼットやら寝室専用の風呂やら、書斎やら、シューズクロークやらをべたべたとつなげていけば、図面上では施主の希望をかなえられても「予算に納まらない」などの問題が生じるのは必定です。それだけならまだしも、「敷地に納まらない」とか、「法規違反になってしまう」など、設計者として最も恥ずべき事態を生まないとも限りません。
そういう訳で、内から設計しようとしても、必ず大きな外側条件は押さえておくのは設計者として当然の作業です。大きな外側条件と内側条件を両方から攻めて行って、その中間に上手な着地点を見出していく作業が、建築設計という作業の重要な一要素だと言えるでしょう。その過程で「お施主さま、本当に書斎なんか使うんですか?。居間の隅に専用スペースがあれば良いのでは?」などという生活提案を行いながら、ギリギリの線を見出して行く。
おそらく、建物のデザイン(意匠とか装飾とかいう意味でのいわゆる「姿・形をきめる」作業)が論議されるのはそれが済んでからということになるんじゃないかな?まあ、もちろん、どんな姿形にまとめていくかというのは、設計者の頭の中に常にあることはあるのですが、、、。
という感じでモノの形がどのように出来上がるのかというような深い議論に陥ってしまうと出口がなくなってしまうので、今日はこの辺で。
結論としては、あまり内からとか外からとか限定して考えるとおかしなことになるということでしょうか。(どうも今日は議論に切れ味がないな。<いつもは切れ味があるのかって聞かれるとそれも困るんですけど。)
余談ですが「足し算で考える、引き算で考える」という考え方の区分も建築デザインの世界ではよく使われる言葉のような気がします。モノの形を決める時に、とことん余分なものをそぎ落として洗練させていくやり方と、それとは逆に、何かを付加して行きながらモノの形を作って行くやり方があるというものです。敷地の中に建物をどう配置するかということを考える時に、必要な部屋の大きさを並べて行く方法と、敷地いっぱいに建物を想定しておいて建物を建てないところを削って行く方法では自ずと建物の形が違って来ますよね。コルビジェ氏が分かりやすいスケッチを残してませんでしたか?
えっ編集長はどうかって?
私個人の性向で言えば「内からで足し算」系だと思います(笑。
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コメント
ドアノブから論.流石です.
(とプロに向かって言うのも背伸びですが)
「人間の尺度」ってなにも手足の長さや目線の高さの
「寸法」を重視して理詰めでいうノリだけでは
ないのですよね.
身体性や生活感を重視というと理解したような感も.
私もダイニングテーブルあたりの
イメージからエセ設計していくと
なんというか外観がどうにもまとまらなくて
こりゃ外からいかないとダメなんじゃないかと
思ったりして.
(といっても広い土地では無いので
建物の枠はおおよそ決まってしまっている
のですが...)
でも中身の性質のみが表層に
あらわれるべきというような
建築論にも膝をたたいたり.
まぁ両方同時進行といってしまえば
安直なモノ言いですが.
ドアノブを見つつ全体をも.
今度からはコレをテーマに落書きをば.
またエセ設計が楽しくなり.
有難うございました.
どうもTB帰りません...
当方の設定が変みたいです.
投稿: rattlehead | 2004.12.03 23:46
毎度どもです。昨日は帰りが遅くなって、結局藤森さんは最後の30分ぐらいしか見られませんでしたが、なかなか楽しい番組になっていたようですね。「樹上の家はやっぱり揺れてるんだ」
両方同時進行と言ってしまえば安直ではありますが、ま、そゆものだと思っています。それでも、建築家個人の性向として、外から考える派と内から考える派があることは事実でしょうね。
中身の性質が外にあらわれるべきというのも、理念としては分かりますが、あまり教条的に従おうとすると苦悩状態に陥ります。例えば「住宅は住むための機械」だなどという、コルビジェセンセイのレトリックに、まんまとハマってどれだけの人が苦悩したか。
中身の性質→外の話は、編集長的には「ビルディングタイプ論」に結びつく話になりましょうか。思いつくままに上げると、学校・病院・パチンコ屋・ラブホテル・老人ホーム・民間集合住宅・公営集合住宅ってのは、たいがい建物を見ただけでその中身が何であるかがわかります。他にもありそうですが。
この話はまた別のエントリーにて。
投稿: あさみ | 2004.12.04 12:57