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2004.11.06

建築はコミュニケーションプロセスである

建築は世界を変えうるかシリーズの番外編ということでお届けします。

建築をつくる場面で現実の問題をコミュニケーションしていくプロセスが重要で、そのプロセス自体が設計であり、建築である。
1)デザインが目的化されるのではなく、コミュニケーションを通じたプロセスの中で建築がつくられ、作家主義とは違う組み立てられ方ができると思う。
2)すでに設計するという意味が決定的に変わってきていて、今まで以上に建築家のコミュニケーション能力が問われている。
3)建築はそれ自体が目的であると同時に、目的を共有するための手段でもあり、コミュニケーションのフィールドでもある。
───「コミュニケーションしていくプロセス自体が建築である」(山本理顕,『建築家』2004年11月号より抜き書き)

 山本氏は言うのです。「建築=コミュニケーションのプロセス」であると。
 そうか、やられたなあ。やっぱり私が考えているような事は、先輩がきちんと考えているのですね。

 建設ワークショップなどを通じて、実際の使い手(公共施設の場合はそれが多くの人になることが多い)の意見を聞きながら設計を進めて行く手法そのものは、とりたてて新しい方法ではありません。それが証拠に(って証拠になるかな?)編集長が今関わっている「森の家」では、まさにそういった方法で設計を行っています。そして、地域住民の皆さんの中には「私が設計した」と思って下さっている方もいらっしゃいます。

 山本氏は、「建築=コミュニケーションのプロセス」を実現するための道具として、埼玉県立大学の7.7mモジュールと複数のレイヤーの組み合わせによる設計システムを例にあげます。計画・設計・建設のシステムを共有することで、ワークショップ参加者が理解しやすく、お互いの意思を合理的に交換できるしくみができたというのです。
このあたりの、コミュニケーションのための道具を、モノとしてデザインしているあたりが、やはりデザイナーであり、技術屋さんであるところの建築家であるなあ、と感心しました。

 これまで山本氏の設計する建物をあまり好きだとは思えず、特に氏には注目してなかったのですが、このインタビュー記事を読んで少し考えが変わりました。「建築=コミュニケーションプロセス」であるというのは、よくよく考えればあたりまえの事なのですが、建築家の側からこれらを「=」で結ぶ考え方が表明されたことに、時代の移り変わりを感じます。これって「新しい主題」っぽい感じするんですけど、どうでしょうか?

 今、私は、コミュニケーションの一方法として「建築」とか「まちづくり」という方法があり得るのではないかと思いつつあります。(ちょっと理屈に走り過ぎ?)「建築が目的で、コミュニケーションがその手段」なのではなく「コミュニケーションが目的で建築やまちづくりはその手段である」という考え方は、ちょっと面白いかもしれないなあ。と。であればこそ、私は、建築づくりにも、まちづくりにも、興味を持って関わり続ける主体であり得るのかな、などと漠然と考えています。

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03評論欄 (建築論)」カテゴリの記事

コメント

hiraです。
フィリピンで調査して、ひとつの解答として取り出したのは、「住まいはコミュニケーション・ツールのひとつとして捉えられる」ということでした。住まいがあることで、延々と戯れていくことが出来る。住まいがあることで、ムラ社会の運営がスムーズにいく、コミュニケーションがしやすくなる。もちろん建設プロセスも、コミュニケーションに役立つ。似ていますね。ただ、それだけが目的ではない。

ハイデッガーは住まいについて興味深いことを言っています。本来、住まうことと建てることは同じだった、と。つまり、「住むために建てる」という、計画・構築と実践・経験が分離するのはおかしい、って言っています。

私は建築の住民参画を支持しますが、それは「住まうことの意味」を取り戻すためにある、と思っています。「建てること=住まうこと」だから。まちづくりもそう。「まちをつくること=まちに生きること」だから。「自力建設/セルフビルド運動」の意義もそこにあると思う。

投稿: hira | 2004.11.07 00:32

つづきです。

部屋の配列でコミュニケーションをコントロールできる、と考えるのが山本理顕が「空間帝国主義者」と言われる所以です。いまどき空間ごときでコミュニケーションはコントロールできない、と上野千鶴子に批判され、「建築プロセスでコミュニケーションをコントロールする」という方法を思いついた。あくまで建築の可能性を探求する「建築設計帝国主義者」なんですね。尊敬します。

ただ、ちょっと「世界を意のままにデザインしてやるぞ!」という感じが引っかかるなぁ。

投稿: hira | 2004.11.07 01:36

202です。こんばんは、

ハイデガーのbauen und wohnen、極解なさっていませんか?僕は原書を読んだわけでなく、『いきられた家:多木浩二』にて知っただけなのですが、この手を住民参加まで持っていくのはちょっとおかしい。

なぜなら、ハイデガーの場合は、建築物を構成の所産として捉えているのではなく、作られ、経験されるものとして捉えているからです。住民参加の場合は、空間を経験することだけでなく、建築物がいかなるニーズの上に立脚し、いかに作られうるかについて、より主体的にユーザーが思考することが求められます。まず、この水準で、専門家がいかなる補佐が可能かを具体的に捉えることが僕は重要だと思ってます。で、じゃあ、どこまでできるのか?と問われれば、プロとまったく同じ水準という訳には行かないでしょうね。住民参加というのは、超越的な主体を設定する(ハイデガーの場合は、そうだなあ、自然のなかの人間)べきではなくて、もうすこし実践的な話だとまずは思います。

小生は世界に人間が住みつくための『住民参加による建築づくり』にはやや、悲観的です。では何が利点か?というと、下記2点かなと思います。

1.公共建築が箱モノに陥らず、施設のプログラムを地域に最適化する可能性を持ちうる。
2.建てて、使いながらより多くのことを知る。つまり、建てて終わりじゃなくて、建物を使いこなし維持する可能性。

ちなみに、アレグザンダーなんかも最近読んでみたら面白かったです。

パタンランゲージというのは『都市はツリーではない』という著作とシンクロニックだということがようやく分かりました。前者では、建築を構成する論理ではなく、経験する論理から捉えた本だと見方を変えてみると、なんで、床と玄関とアルコーブと梁が等価に扱われているか理解できた気がします。これは、後者で都市を計画するものではなく、経験されるものと見方を変えるという前著での筆者の考えとも符合する訳です。つまり、計画(ないし)構成と経験は同一ではなく、無数の解釈を可能とするということです。こういう小さなルールで全体像を形成するという事が、ひとまず建築の作り方を変えるエンジンとして、山本理顕さんの関心のモトになっていように僕は思います。つまり、計画=経験の同一性をまず疑うということ。空間構成を高次で捉えるという感じではない様に思います。もうすこし大きな可能性がある。

そういえば、風水なんかも、近代化されてしまった僕には全部は理解できない階層性をもっているわけですが、これも、優れて計画的かつ経験的です。


投稿: 202 | 2004.11.09 03:35

でっ、住民参加というのは、他者というフィルターを通して建物のあり方を環境や時間に対し開放していくということだから、本来可能性がものすごくある考え方だと僕は思うのですが、職業上の問題意識にすりかえられてしまう可能性がすごく多いことも事実だと思うのです。

上述したことは、僕が職業人として、デザイナーとしてもっとも惹かれる部分で一般解ではありません(ちいさなルールで建物と作るとか、新しい空間構成を開示する可能性をもつとか、そういうことが僕の関心)。でも、こういう話はいつも『アンチ』として扱われてしまうことには閉口してしまいます。

編集長の師匠の世代は、モダニズムへの批判的な気持ちをもって、住民参加や表現の多様性を鼓舞した方々だと思ってますが、この視点も、表現に閉じていく傾向は否めなかった様に思います。みんなであつまってワイワイ以上の成果をあげる為には、このあたりのさじ加減がむずかしいですね。

ともかく、僕は、例えば、今アレグザンダーもちょっとは分かるなとか、そういう個人的なことしか軸脚にはできないです。建築は最後の最後に出てくるので、こういう具体的な取り組みの中で人の心が変わってくる。その一瞬のタイミングでしか、すばらしい建物は生まれないんじゃないかとも思うし、、、本来、一個一個、コミュニケーションを深めて、モノを作るのは日頃の設計と一緒だと思うので、『公共施設の住民参加』だけが特別扱いするのは、業界の陰謀を感じる次第。

投稿: 202 | 2004.11.09 06:52

ハイデガーまで出てくると私の手には負えませんが(笑
ともあれ、面白い議論ではありますので、コメントしたいところですが、ちょっと手一杯なので、時間下さい。
ポイントはいくつか
1)山本理顕氏は本当に部屋の配列でコミュニケーションをコントロールできるなんて大それたことを考えていたのか?
2)「建築設計至上主義者」でない建築家というのは、どういう存在としてあり得るか?私自身はどっちなのか?
3)住民参加による(というか、参加しないのがおかしいと私は思っている)建物・まちづくりをもう一度捉え直したい。
4)202氏の悲観する悲観のあり方が、少し見えにくい。
などなど、
ひっかかるところ(悪い意味ではない)の多いコメントをいただいたので、少し考えてみますですよ。はい。

投稿: あさみ | 2004.11.09 15:46

bauen und wohnen、大いに曲解してます(笑)が、ハイデガーの考え方は基本的に違わないと思います。
ただ、住民参画/参加の考え方が違う。

住民参加は、参加してくる住民が、プチ建築家になることはないと思っている。そうではなくて、クライアントとして立ち現れてくることだと思っています。だから経験の次元でいいのです。むしろ、経験の次元が大切なのです。だからこそ、202さんが指摘するようにパタンランゲージが経験の次元で成り立っていて、それが住民参加のツールになりうるわけです。(パタンランゲージは、そういった経験の次元で成り立っている要素を、他者と共有できる形にし、また建設できる形に持っていくものだったと思います。)
私はその意味で、プロの建築家は絶対的に必要だとおもう。住民が経験の次元で作るものを統合し、吟味し、構築する役目があるからです。これは基本的に住宅設計でのクライアント=ユーザーと建築家との関係とパラレルです。住民参画/参加とは建築家が対話すべきクライアント=ユーザーを、個別の顔を持った人たち(複数形)として立ち現せるための方法だとおもいます。

それ故に、住民参加は「経験の次元からの建物作り」を可能にできると思う。住まうことと建てることの同一性を取り戻す"はじめの一歩"だと思っています。

それから「編集長の師匠世代の関連」では、象の富田玲子(「都市のイメージ」の訳者)は、住宅設計を請け負うと、その人の住まいの経験を引き出すための100の質問アンケートをしたと言います。それをもとに設計を始めた。これも「経験の次元からの建物作り」に近い。(それはノスタルジックだとも言われるが)

投稿: hira | 2004.11.09 21:25

いや、別にいいんですけど、住民参加を云々する場合。どうも分かりづらいなと思うのが、こんな風にすればもっと楽しいよ!という普通の人にも分かる声かけがまあまり無くて、設計している当事者の責任感とかヒロイックな立ち位置の話ばかり出てきてしまうと思うんですよ。これには、僕、相当違和感あるな。

山本さんは、オウラ町だっけの仕事で、みんなで使える立体パズルをまずゲームのルールとして仮構して、そのおもちゃをみんなに触ってもらうことから設計に着手しています。僕は、ココ、ヒロイックなこと百万遍書いたり言ったりするより謙虚で重要なことだと思うな。いきなり、ハイデガーまで飛んでいってしまうから話がややこしくなる。

つまり、経験からものごとを構成していく為の、あるいは個々の経験を総合化するためにどんなルールやツールを仮構できるか?ここがもっとも重要だと思います。これは建物によっても、参加者によっても、あるいは建築家によってもいろんなトライアルが行われてしかるべきだと思います。

アースキン(バイカー)やクロール(集合住宅)等でも、最小の規制で最大の変化を可能とするプラットフォームの部分はとても建築的に良く出来た仕組みだと感じます。こういう流れは僕は案外日本ではこれまであまり無かったんじゃないかとすら思うのですが如何でしょうか?

そうでないと、公共施設が巨大コーポラティブハウスみたいな、夢の無いものになってしまいそうだよね。う〜ん

ハイデガーは人間の原基的な部分を哲学的な観点で記述している訳で、僕の論点は、現代社会は既に雑多な集団によって構成されているのだから、理想論ではなくて、個々の建築家がプロジェクトに挑む視点 や 具体的ツールを持ってないとだめなんじゃないの?と自戒を込めて思う訳です。

投稿: 202 | 2004.11.09 22:12

雑誌にはあまり出て来ないけど、林泰義や木下勇なんかはまさしく、そういうわかりやすい住民参加だと思いますよ。ツールにしても、ヘンリーサノフのように、ゲームとして取り組める方法が、30年かけて蓄積されている。実際、とっても楽しそうにやっているし、ヒロイックなところもないし。

熊本にしろ、邑楽にしろ、そういった知恵の蓄積は無視されて「私がこのツールを開発しました」っていうほうが、どうかなぁ・・と思う。それが建築家の「作品」です、と言われても、そんなの昔からあるしー、と正直思います。(あー、これは負け組のグチか?)

あと、「立体パズル」のようなツールは、もちろん大切なんだけど、これは参加のスキルだとおもう。如何に効率的に最短距離で解答にいたるか。ムラの寄り合いだともう延々と何日も同じ議論を蒸し返して、それでコミュニーションがとれて、合議にいたる。現代人はそんなヒマも情熱もないから、手軽にパパッと、喧嘩にならずに事が運ぶ方法でないといけない。

それと「ルール」を決めて行なう「ゲーム」について。
L.ストロースは(っていうとまた『難しい話」になっちゃうけど)「ゲームはルール(構造)から出来事が生まれるが、儀礼は出来事の集合を組立て直して構造的配列を作ろうとする」
なんてことを言っています。これはムラでの空間のつくり方・経験のされ方と、ルールから建築をつくり出そうとする方法論の違いを明確に言い当てていると、私は考えています。
私が、参加や新しい空間創造の可能性をかいま見たのは、明らかに後者の「儀礼」です。

投稿: hira | 2004.11.09 22:56

>最小の規制で最大の変化を可能とするプラットフォームの部分

バイカー、ルーバン、それにヘルツベルハーのハウトタウンネン集合住宅といったところでしょうか?

日本だとUコート、NEXT21、沢田マンション(?)がかろうじて引っかかるかな?もちろんメタボリズムは関係ないとして・・・

しっかし、アースキンにしろ、クロールにしろ、多木浩二にしろ、アレグサンダーにしろ、ソースが似すぎている! あさみ新聞読者の傾向?

投稿: | 2004.11.09 23:19

うむむ、どうもかみ合っていない。

えーと、経験することと構成することが本来無数の関係性の中で仮に決められているに過ぎないという認識が、僕は住民参加を目的として捉えるのではなくて、これからの建築を考えていく上でとても大事な意識だと思っています。

住民参加っていう仕組みは僕は本来無い方がいいと思うんですよ。だっていきなり『住民」だもんね。そんなものに組するつもりは僕は毛頭ないです。お役所に任せておけばいいんじゃないかな。住民がただの住民じゃなくなるのが一番いい訳じゃありませんか。ここのフレームで出てくる住民という言葉は、ハイデガーとかとは全く関係ないし、所謂未開地をみてきたレヴィストロースとも全く関係ない、東洋の島国での、人の呼び名でしか無いと思いますよ。あるいは近代を引きずった人の呼び名だと思います。違いますかねぇ。

現代はものすごく情報化されていたり、むかしながらの生活をしている人がいたり、多様な人達が隣り合って暮らしているわけだから、それぞれの経験、空間読解能力、あるいは何を大事にするか?という価値観の偏差がとても大きくなっている様に思います。故に、平均点を底上げしようみたいな意味合いで参加なんかを口にすると、あんた何様だって突っ込まれるのも当たり前ですよね。だから、ツールがルールを仮構するのが必要だと考えてみた次第。それと、評価も大事ですね。こういう話がマニアのコアな議論ではなくて、オープンに行われないと、箱モノ作る考え方と本来的には変わらないとまずは思います。さらにいうなら、その上で、そういう仕組みでしか作られ様のなかったモノを作ることに意義があると思います。これは、ルールもツールもこの結果を担保するモノではありません。なので、僕は維持管理とか、計画段階での最適化には一定の意義がある様に思うけど、それ以上となるととても懐疑的な訳です。

如何に参加させるか とか なにを決めるかじゃなくて、どのように複合性を作るかが問題なんだと思います。10年、15年前ならいざしらず、もう参加して当たり前の世の中な訳だから、そこで、何をやるか、どういう組み立てをするかが重要だと指摘しつつ、経験から空間を作り上げる様なことができると、例えば参加による作り方ではなくても、幅広い人々の共感を得る事ができるのではないかなとまず、思います。ここに集中したいなあと考える訳です。苦手な話題なので、悶々としてますが、こんな感じで今回は消えようと思います。

余談)
個々いろんな事を参加者が言ってくるにせよ、まとめあげるのは設計者だし、所謂住民にコスト意識や長期的な保守、あるいは運営を『責任者』として方向付けてもらうのは土台無理な話だと思うから、やっぱ、加算的に要望を付加した以上の内容にするのは、建築家の役割だと思います。
山本さんは、集落調査などもやられていたので、空間のサンプルは一杯もってると思うし、その上での構造化なので、山本さんのツールは個人史としても、そういう傾向あったんだろうなと素直に納得してました。
エコでもなんでもいいんですが、なんで、参加で作られた建物が三角屋根でナマコ壁なのか?ってのが、参加だけが目的だと全然出てきません。

投稿: 202 | 2004.11.09 23:26

>ハイデガーは人間の原基的な部分を哲学的な観点で記述している訳で、僕の論点は、現代社会は既に雑多な集団によって構成されているのだから、理想論ではなくて、個々の建築家がプロジェクトに挑む視点 や 具体的ツールを持ってないとだめなんじゃないの?と自戒を込めて思う訳です。

ハイデガーの近代批判は、幸せになるためにがんばって来たはずの「近代化」がなにゆえに非人間的になるのか?という問題に、いいヒントを与えてくれると思うんです。だからそれは跳び箱の飛び台にはなるとおもいますし、プロジェクトに挑む目標にもなると思う。

具体的ツールについては、参加を行なう際の「スキル」だからそれはあった方がいい。ただオリジナルである必要はないかな。

住民の中に飛び込むのも、住民の中で信頼を勝ち取るのも、結局は建築家という人間でしかないのですから、もう、最後はやっぱり、その地域や人間に対する「愛」みたいなもんしかないと思います。「スキル」じゃなくて「愛」(あー、ロマンチスト暴露。笑)
人間と人間との直接的コミュニケーションが、住民参加に関わらず、建築設計プロセスには不可欠だと私はおもいますです。

投稿: hira | 2004.11.09 23:56

>経験から空間を作り上げる様なことができると、例えば参加による作り方ではなくても、幅広い人々の共感を得る事ができるのではないかなとまず、思います。

「幅広い人々」ではなくて、その建物のクライアント=ユーザー、主体に共感を得る、ならばよくわかります。「幅広い」になると「帝冠様式」方面へ行く・・・


それから、クロールのルーバンのような、「個人要望にオーダーメード」して複合性をつくり出すタイプの参加(Uコートなど)と、参加者をまとめてユーザとして想定する(たとえば地域の景観を考えるなど)場合と二種類の参加があると思います。複合性なら前者「個人要望型」ですね。

ふぅ、さすがに疲れてきました。

投稿: | 2004.11.10 00:24

あれれ、疲れさせてしまいましたか。では、すこしだけレスを書いてみます。

>幅広い人々→建物のクライアント=ユーザー

これは、すごく疑問。

だって、『嗚呼、こういう場所で暮らしてみたいな。』というのでも構わないですよね。

多分、この辺りが多分コミュニティ論の限界なんだと思いますよ。ある建物が想起しない人にまで影響を与える事はよくあることだし、こういう状況は現代でしか起こり得ないことだと思うから、むしろ事実を積極的に捉えた方がいいんじゃないでしょうか?違うかな?

僕は若い頃、R.N.ベラーという心理学者の『心の習慣』という本を読んでとても面白かった記憶があります。ベラーはただのセラピストで莫大な数の精神病の患者にインタビューを行い。その記述を淡々を本にまとめるのですが、その中で、アメリカにはいくつかの共有されている『人格』の様なものがあることがわかってきます。

・所謂、西部の粗暴な男(ジョンウェイン)だったり、
・経験なカソリックの信者だったり、
・所謂、ホワイトカラーだったり、
・WASPだったり、

で、なんでみんな病気になる位に悩んでいるかというと、それぞれの人が規範として選んでいる人格(=価値観)が通用しないという話。これはすごく面白くて他民族国家のアメリカで、クリシェとしていくつかの規範的人間像がある訳ですが、それぞれは理念として存在しても現実的な局面では成立しないという社会構造が生まれているという結論づける訳です。こういう状況をライフスタイルの飛び地化という具合に構造的に論を進めて行きます。

僕の実感として、成熟社会では、僕たちはみんな飛び地の住民だし、この飛び地というのが空間的には規定しづらくなってる様に思います。この様な認識で、では、建築家として何ができるかということに、僕個人は挑戦してみたいと思ってるんですよ。変に仕事を細分化してしまうのではなくて、これまで試みられた建築の作り方やその時代の社会の中でのあり方をクールに見つめて、今の状況から解釈し直す謙虚さは大事にしたいと思っています。

と、いうわけで、参加は善とはとても言えないんですよね。割と建築の職能としての機能性は出尽くしている様にも思うので、目線を変えるとどこ迄できるか?という具合に、結果を予測しながら、予測を超える様な成果が得られるタイミングみたいなものを考えられると良いなあと思います。

投稿: 202 | 2004.11.10 01:29

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