建築の持つ力—建築は世界を変えうるか(2)—
なんか、どう考えても私の独り相撲みたいなことになってきました。これまで皆さんから有益かつ示唆に富んだご指摘をいただいたことをきっかけに、いろいろと反省し、実はこのまま止めようかとも考えましたが、途中で止めるのも悔しいので、無理矢理続けます。つまんなくなっちゃった人は無理に付き合わなくていいですけど、できたら、ご批判はいただきたい。一応、初めての方のために、前回はこちらです。
■力をもつ建築は存在する
『建築』に力があるのか、については様々な議論があろうかと思いますが、私のわずかな経験から判断すれば、力を持つ建築は確かに存在すると思っています。ただし、それが「世界を変え」る程の力があるかどうかは、今のところわかりません。
今回の議論では、前回いただいたコメントより反省し、『建築』と建築とを使い分けてみます。
『建築』
建築と呼ばれるものの総体。
私のイメージでは、大文字の建築が近いかも。
「建築の解体」とか言う場合の『建築』
建築
個々の建物(単体)。
「2丁目の角に建っている建築」という時の建築
それからもう一つ、コメントからの反省を踏まえ、建築という言葉にやたら多くの役割を与えないようにしようとしています。とりわけ、建築の人格化・神格化については202さんのご指摘の通りだと思いますので、これを注意深く避けようと思います。でも、ものごとを人格化して考えようとするのは、私の思考の癖のようなものでもありますから、どこまで排除できるかは謎ということで・・・
だいいち「建築の力」という言い方が既に建築を人格化しているわけですから、言い訳のしようもない。わはは。
■伊勢神宮で考えたこと
まずはじめに、建築が持つ力の例として、私の「建築の力実感体験」の例をあげましょう。
伊勢神宮が遷宮をした時ですから、もう十数年前。伊勢神宮の神様が移った後の、いわば旧宅の方を見学したことがあります。神様がいなくなっても、奥の奥までは入れませんが、普段は宮様だけが入れるという空間にお邪魔しました。その時に、やっぱり神様はここに住んでいたのだと、素直に納得してしまったのです。普段は、無神論とまではいかないまでも信仰心の薄い私ではありますが、その時だけは「ふーん。神様ってホントにいるんだ、、、。」と、感じたものです。
これが空間の力、『建築』の力なのかな? とその時、漠然と感じたことを覚えています。
(実は、ここで取り上げたのが宗教建築であることが、話を複雑にしていることは承知なのですが、とりあえず他に適切な例を思いつけません。)
さて、 『建築』の力を議論するにあたって、伊勢神宮のような大きな存在を相手に、真正面から力づくで「大文字系」の議論をしても、それは私の手に余ることは目に見えています。そういう作業は直球勝負の豪腕投手に任せて(おいおい、人に任せるんかいっ!)、私は、少し方向転換して、もう少し私のやり方で『建築』の力にアプローチしたいと思います。 変化球投手の登板ということで、、、。まず「建築に力があるなどと思わない方がいい」という点について、私の思うところを述べます。
■建築は本当に「とるにたりないもの」か?
「『建築』に力があるなどと思わない方がいい」という言い方があります。(Googleで「大文字の建築」を検索すると、そんな話ばかりがヒットします。お試しあれ。世間的には「大文字の建築」は終わったと言われています。前回のコメントでもご指摘いただいた通りです。)。前回注記で触れた「オウム真理教のサティアンとともに「大文字の建築」は崩壊した」というような言い方がそれです。しかし、私に言わせれば、この言い方は、行き先(主題)を見失った者の言い訳に聞こえます。「主題を探すという主題」に疲れ、「そもそも主題なんか無いんだ」なんて言うのは、ゲーム盤を引っくり返して勝負そのものをなかったことにするようなやり方で、私はそこまで開き直れない。それは、「全ては差異の戯れだぜ。」と言ってしまうのも同じことです。
■私の腑に落ちないこと
私は、hiraさんの言うように、建築を「とるに足らないもの」と言ってしまった瞬間に、自分の中にわき起こる「じゃあ、お前さんの作っているのは何なんだ?」という疑問と対峙できなくなってしまうのです。私にはとるに足らないものを作っているわけではなく、戯れているわけでもないという確信がある。
これは前回も述べましたが、設計者として、施主に向かって「あなたが作ろうとしている建築なんてとるに足らないものです」とか「差異の戯れなんですよ」などと言えるでしょうか?少なくとも現在の私には言えないし、おそらく未来永劫私には無理です。
別な言い方をすれば、『建築』は記号であるまえに、まず実体としての建物であるという点をスキップした議論をしていても、実際のところ私は救われないのです。
という訳で、私の主題探しはまだまだ続きます。
■私の『建築』生活のきっかけとなった本
ここで、私が『建築』を目指すきっかけになった1冊の本を紹介します。これは、私の廻りではいささかマイナーな1冊で、タイトルを「残響2秒―ザ・シンフォニーホールの誕生」といいます。これは、大阪のザ・シンフォニーホールの建設を描いたドキュメントでした。残念ながら今や絶版ですが、一般にはそれなりの反響があった本なので、大きな図書館に行けば置いてあるのではないでしょうか(神戸市中央図書館に1冊ありました。現在貸出し中)。その内容については私が語るよりも、ここに丁寧な説明がありますので、そちらに譲ります。記憶を頼りに一言だけ添えれば、私にとってこの本は、残響云々の話よりも、建築が大変多くの人々の手を経て出来上がるのモノだということを克明に描いた好著だと思います。多くのプロが関わって初めて一つのモノができていく様子は、私にとっては大変な興奮でした。
高校時代にこの本読んだことをきっかけに、私は、その後の人生の方向をほぼ決定しています。この意味でも『建築』は人の人生を変える力がある、と言えるかもしれません。(いやいや、この場合は1冊の本の力と言うべきですね)
■『建築』行為の楽しみ
さて、こうしたきっかけから始まって、今や建築設計を職業としている経験から、建築の力を考えてみます。設計の段階で、施主あるいは建物を実際に使う皆さんと協力して、どんな姿形の建物を作って行こうかと考えるのは、とても楽しい作業です。一方、建設の現場で、多くの人々が協働でモノを作り上げていく興奮と、求めた建物ができていく喜びは何ものにも代えがたい。そして、これらの喜びは、私が「建築でメシを食って」行くための原動力になっているのです。これは『建築』の力と言ってもいいですよね?
そして、こうした感動を通じて、建築は確実に施主やユーザーや作り手、それからこれらの人々の廻りの人の人生に大きな影響を与えている。これも『建築』の力と言って間違いではないでしょう。
このことは、今動いている現場についても同じことで、現場の監督や職人さんたちのプロフェッションによって、機能的で、美しく、地域に根ざした建物が建っていく、その喜びは、本当に何ものにも代え難い。『建築』には、モノを創造する人々(人、ではなくて人々なところが大事)を突き動かす何かがあるのです。
これも建築の力だなあ。と思います。
■コミュニケーションの道具としての建築
「建築の力」などという言い方が、話をえらいややこしくしていますね。今、私は、私が強調しようとしているのは、コミュニケーションの道具としての『建築』行為という考え方なのではないかと気づきつつあります。つまり私は、建築というモノを創る行為を軸としたコミュニケーションをこそ楽しんでいるのではないか。そしてそれが世の中を変えていく可能性を持っているのではないかと思っています。そして、創られた建物を通じて、私たちのコミュニケーションは、きっと建物の命が続く限り続いてゆくのです。
このコミュニケーションの道具としての『建築』については、建築は世の中をかえうるか(3)にてお届けする予定です。(だからいいのか、そんなこと言って、、)
で、結局
どっぷり浸かっているいるのは私だったか
と気づきました。
いや、ちょっと話はそれるんですが(笑、森の家、美しいんですよ。先日現場に行った帰りに、車窓の風景を見ながら「いやあ、森の家ってきれいよなあ」を連発して後輩に笑われました。掛け値、はったり、謙遜なしに、純粋にきれいな建物になりそうです。これから内外壁の仕上工程、フォルムは既に美しいので、これを殺さないように進めたい。
以上、あまりに支離滅裂なので、今回はまとめ付きにします。
■まとめ
1)世界を変える程かどうか分からないが、力を持つ建築は確かに存在すると信じる。
2)私は「主題を探すという主題」を捨てられない。
3)『建築』行為にはモノを創造する人々を突き動かす力がある。
4)それは『建築』行為を媒体にしたコミュニケーションに潜む力ではないか。
5)森の家は美しい(笑
斯くして、編集長あさみの「建築設計業のアイデンティティ」を通じて、建築の持つ力の話をしてきました。この議論は次に、「建築=コミュニケーションプロセス」という点について検証していきますが、残念ながら、時間と体力が尽きつつあります。長いのもどうかと思いますので、いったんここで止めます。
「建築は世界を変えうるか(3)」がいつ出来上がるか分かりませんが、その機会をお待ちあれ。
■謝辞
この長い文章を書き始めるきっかけとなった、kenchikukaさんに感謝します。少し自分の頭が整理できました。時々こうして自分の考えていることを文章にするのは良いことですね。
せっかくなので、ここで彼女の一言を再録しておきます。
わたしは、建築だけにどっぷり浸かった建築家であるし、建築こそが世界を変えると思っています。
かっこいいなあ。私には言えないなあ。しかし、kenchikukaさんは、やると言ったらやるんだろうな。そういう人だということが文面からひしひしと伝わってきます。私もがんばろー。
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「31特集記事「建築の持つ力」」カテゴリの記事
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コメント
なんか支離滅裂で、むちゃくちゃコメントしにくい文章ですね。
読んで下さった方には感謝です。どうもありがとう。
もう少し整理してからアプすればよかったかなと、少し後悔中です。
投稿: あさみ | 2004.11.05 22:27
難しい問題をわかりやすく書かれていると思います。
ただ、どっしりとした話題だから軽はずみに返答できない(笑)んです。
「建築に世界を変える力があるか?」は、「人生に意味があるか」みたいな話題だと思っています。50年前にはその動機付けが上手く働いていたけど、今はそうではないともいます。むしろ弊害も出てきた。
私は「世界を変える」ことを目指しません。『建築で世界をかえよう』とは思ってない。けれども「差異の戯れ」と開き直っているわけでもない。
端的に言うと、自分が少しでも幸せを感じるために建築をやっている。ベストはつくす。いいモノをつくったぞ!という満足感、相手に提案するときのドキドキ、建築を考えている時間そのもの、そういったものが好きなんだとおもう。そして、自分がよしとする建築のありようを世の中に提示することに快楽を感じる。
つまり、私にとって、建築は社会参加の手段です。意思表示や表現だといってもいい。それは(つらくて面倒だけど、)とても楽しいことです。だからやる。おかねにならなくても、社会参加という意味で提案を行なう。
でもそれは、「建築が世界を変える=建築家はしっかりしなくちゃ」とは違う。「いい提案をした俺は偉いなぁ」という、自己愛的な動機なのです。世界を変えようが変えまいが、自分が「よりよい」とおもうモノをつくれて、それがとても嬉しい。もし、他人もその建物を「いいねぇ!」と思ってくれたらもっといい。そんなところです。
投稿: hira | 2004.11.09 01:34
あ、分かりやすいですね。特に50年前と現在の違いについては、きっとその通りだと思います、hiraさんの説明でストンと胸に納まりました。
しかし、どういうのかな、えーと。もともとね「世界を変えうるか」という大上段な言い方が悪いのですけれど・・。例えばある一つの建築が「まちなみに対して暴力的な建物をつくる」とか「変な流行のスタイルをつくる」とか「精神衛生に悪い建物をつくる」などの少し小さいエリア(世界といわず、近所のあるいは特定個人のあり方など)を変えることに対する責任の一端を握っていることは確かだと思うのですよ。建築設計者としてその責任について常に自覚的でありたいと、私は常々思っているのです。(山本理顕氏が部屋の配置でコミュニケーションをコントロールできると思っていたか?という話は、少し別の議論で。)
私が、このコメントで何が言いたいかと言うと「いい提案をした俺は偉いなぁ」と思う(思いたい)のは私も同じ(笑 ですが、その裏に潜む上記の責任も一緒に引き取らなければ、職能としての責務に無自覚であると言われかねないということかな。(自分で言っておいて「かな」もないもんだと思いますが。)快楽に付録としてついてくる責任を当然ながら引き受けたいと思います。
で、その責任の表明が「私はこの建物で、これだけ世界を(というか、地域や個人のありようを)良くできます。」という提案になるような気がします。私も正直なところ、hiraさん同様「世界を変えたい」と思っているわけではありませんが、私の提案によって世界が(というか、地域や個人のありようが)少しでも良くなればいいという位には思いながら仕事をしています。
「社会参加」は私にとってもしっくりくる言葉でした。賛成。
投稿: あさみ | 2004.11.09 15:26
こんにちは、ローマ字の「kenchikuka」です。あさみさんはむずかしい問題を、わたしにもわかるように書いてらっしゃいますね。
最近、わたしがわかんなくなっていることは、こないだあさみさんが書かれていたように、本や映画だって多くの人の手が入ってるモノでしょ。それと建築はどう違うのかな。個人の生活や社会と密接に関わっていること? じゃあ、椅子や食器、洋服はどうかな、人の生活に密着したモノじゃないかな。
わたしはそういうものと建築との違いがわからなくなってきました。違うと思うけど、それを言おうとすればするほど、他のものと代替できてしまう。
コミュニケーションというキーワードはそれに一つの答えをくれるのでしょうか。(いやいや、べつに求めているわけではありません、わたしの個人的な問題なんですから)
そうそう、わたしも式年遷宮の年に伊勢神宮行きました。わたしが見たときには新旧二つ並んで建っていました。ちょうど10年前の秋だと思います。
これからもご指導いただきたく思っております。ではまた!
投稿: kenchikuka | 2004.11.11 18:26
kenchikukaさんこんばんは。
本や映画だって、というのは確かにその通りですね。で、人の生活に密着したものを作るのは他にもあるというのもその通りだと思います。んで、私の思うことは(わりと別々に)2つあって、
1)ある誰かの幸せのために何かを創る。という意味で、生産活動というのは同じ根っこを持っているということ。建築をつくるというのは、たまたま建物で人の幸せを実現するのが得意な(あるいは得意と信じている)人たちがやっている生産活動の単なる1種類に過ぎないのではないかということ。
2)建築が他の業種と違うことがあるとすれば、動く金額が大きいだけに関わる人々の数と種類(職種)が、ものすごく多岐にわたることではないか。(だとすると映画も一緒ということになるんですよね。)で、あればこそ、コミュニケーション能力が必要とされる、と、そういうことではないかなと思うわけです。
どうかな?かなり勢いで書いてますので、またあとで修正するかも知れませんが、2004年11月11日午後11時50分現在の編集長(36)はそう思っております。
ってことで。
投稿: あさみ | 2004.11.11 23:51