家族論から住宅を考える
■「家族論—それは住宅という建築の形式か内容か—」
住宅を考えるには家族について知らなければというように、ハード(建築)をやる際にソフト(内容)を知悉しなければならない、といったら話は通りやすいかもしれないが、あまりに正当な意見でありすぎ、かえってそれは本当かなどとひねくれて問い返したくもなる。基本的にソフトとハードの間には必ずずれが生じるからである。いくらソフトに密着しても、それがうまく機能するとは限らない。例えどのように調査主義的に事実を並べても、そこから立ち上げられる、例えば「生活」像なり、「家族」像なりは、一旦抽象的なモデル化を経てはじめて成立する。同様にこれを空間の配列に置き換えていく作業もまた無媒介的に自律するわけではない。図式化されたプランは抽象物(これもモデル)であり、現実の空間はそれに留まらない次元(美的な、あるいはデザイン的なと限定するつもりはない)をもっているからだ。さらには現実にその空間に介在してくる人間も計画通り振舞うはずはない。時間的なファクターまで入れればそのずれはさらに拡大する。私は計画は可能性をつくりだす(それがなければ建築をつくる意味はない)とともに、それ以外の可能性を──閉め出すとはいわないまでも──著しく限定するという意味で一種の(権)力の行使であると思っている(これは設計者がユーザー・フレンダリーか否かとは別のことなので念のため)。しかしそれに対してユーザーが計画意図を裏切る自由をもっているとも思う。このずれは建築を廻る最も面白い要素なのではないか? しかし、だからといってソフトはどうでも、ユーザーが何とかするさという話でもない。とりわけ私のように思想的な意味に関心をもつ者にとっては、ソフトがもつ思想的な意味(正直ここが微妙で説明しにくいのだが、社会学的な意味とはあまりいいたくない)はそれ自体として関心を惹く事柄である、と、(後略)
──「家族論─それは住宅という建築の形式か内容か?」八束はじめ(「10+1」2004/05 より)
太字強調は引用者による
八束はじめさんは相変わらず難しい言い方をしますね。家族論の冒頭のマクラの部分から引用しました。なんとなく心に引っかかった(悪い意味ではありません。「釣り上げた」くらいの意味)のでコピペしといたものです。思うところを書き始めてみたら、最初に企図していたより面白くなりそうな予感。
まず、上記引用を要約すれば(せんでもええような話ですが)
建築は生活の新たな可能性を開くという力があるが、
それ以外の可能性を限定するという意味で計画とは権力行使である。
⇅ この間に生じるズレこそが建築の面白いところ
一方、ユーザーはその計画意図を裏切る自由を常に持っている。
という感じですかね。どんなに施主を知ろうとしても、建築家が措定する「施主の生活像」には実体とのズレがあり、そのズレた生活像と建築にもズレが生じる。このズレまくった建築にはある種の力(可能性の開放と限定)があるものの、それをさらに施主が裏切るというズレが生じていく。なんかズレまくっていて、建築やる気なくしますね(笑。そのズレを面白がれといわれても、、、、という感じ。
でも、言っていることは間違ってないと思います。普通に考えたら、このズレは間違いなく生じる種類のものです。他人の考えていること(意識してさえいないことも含む)を全て理解できる人はいませんから、、、。しかし、実際にはズレた建物では施主に認めてもらえませんから、最終的にはズレてないように見えているはずです。どうしてそういうことが可能かと言うと、
1)ズレをごまかされている人がいる
2)ズレに気づいてあきらめている人がいる
3)ズレててもいいと皆が思っている
4)ズレに誰も気づいていない
5)ズレなど全くない
のどれかが起きているからだと思われます。
私の場合。4)が多いかなあ。1)とか2)もあるんだろうな。
さて、ここで編集長は考えました。このズレを最小限にするために、どんなストーリーを持ってくるかというのが建築設計へのアプローチの方法論となるのではないでしょうか。一つにはまず、ある大きな物語によってズレを抑え込むという方法が考えられます。例えば「環境に配慮してこうすべきだ」というように大きな論理を優先し、ズレが生じてもあきらめるというのもその一つです。コンセプト重視とでもいいましょうか。
あるいは建築家が施主をだまし続けるというのもあるかも知れません。あるいはエライセンセイの設計だから、、、と施主があきらめているというのもあるでしょう。(しかし、いまどきそんなのあるんだろうか)逆に、あなたの設計でさえあればどんなものでも、と最初からあきらめている例もあるかも知れません。
さらには、とことんズレが生じないように最大限の努力をするというアプローチもありますね。例をあげると、施主ととことんコミュニケイトするという方法がそれでしょう。酒を酌み交わすなんて手法を宮脇檀さんがどこかに書いていました。執拗な住まい方調査・集落調査などを通じて建物のあり方を追求するような方法もこれに当たるかしら。
ここで、突然 「編集長の師匠の世代」の話(「建築はコミュニケーションプロセスである」の202氏のコメント参照のこと)になりますが、202氏の言うように、表現に閉じて行く傾向があったとしても、このようなアプローチの方法はなかなか誠実じゃないかなと編集長は思っています。
で、さらに話は飛びまくるのですが、202氏がひっかかっている「住民参加」とか「ワークショップ」とに関していえば、それは大勢の人々の意思決定の方法論であって、建築設計の方法論ではないと考えたら話は整理できないでしょうかね。
で、結局、アプローチの仕方は、最終的には一つじゃなくて、上記の合わせ技で攻めるという感じになるのでしょう。八束さんのようにズレを楽しむってのは、大人の余裕だなあと思う次第。
八束氏の「可能性を作り出さないのなら建築をつくる意味はない」というのも印象的です。私もそう思います。ただ、おそらく氏が述べているのは、建築家が施主の生活像を把握し、その先に新たな可能性の地平を開くことが大切であるということだと思いますが、私は、ちょっと違って、施主と建築家が出会うことによってそれぞれ単独では成し得なかった新たな可能性を開くことができれば、それは双方にとってとても有益なことだ、というように考えます。
ここで不用意に「ユーザー参加」とか「住民参加」と言うと、また202氏あたりに噛み付かれそうなので止めておきます(笑 が、私が理想とする建物づくりは、設計者と施主と施工者の相互関係が生み出すものではないかとここ数日思っています。
えーと、生活のプロ(施主)と、計画のプロ(設計者)と、施工のプロ(施工者)のコラボレイトといいますか。で、また、しつこいようだけど「住民参加」ですけど、施主がたくさんいる状況での意思決定のテクニックぐらいに思っておけば、公共建築も個人住宅も変わらないんじゃないかなと思うんですよね。
なので、全権を握る権力者としての建築家像というのはあまりピンと来ません。ただし、八束氏が指摘しているように権力行使という側面はあり得ると思いますから、その力の行使については充分な注意が必要であることは肝に銘じておかねばならないですね。
まとまらないですが、休刊を続けるのは心が痛いのでアプしておきます。そのうち手を入れるかも知れません。
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