建築とはなにか—建築は世界を変えうるか(1)—
ユニバーサルな視野で建築を外側から見つめ直す。世の中に必要なものは、本当は何なのかを見つめ直す。そういう作業が僕たちに求められているのだと思っています。軸足が建築だけにどっぷり浸かっている(って、そういう人はめったにいないんだけど)ケンチクカ達に見えないものが見えるような人でありたいです。今日はちょっと固めのお話になりそうです。
───あさみ
親愛なるあさみさんと意見を異にします。わたしは、建築だけにどっぷり浸かった建築家であるし、建築こそが世界を変えると思っています。ただ、仕事をする上で対外的に、ほかの建築家とはちがうように振舞える、ということなのです。そしてこれがわたしの必殺技になりうるのです。
───kenchikuka
わたしのお気に入りブログ「文系で建築家で起業家の女の子の日記」でのやりとりから
私の敬愛する建築家であるkenchikukaさんの一言から、いろいろ考え込むことになりました。彼女は、相変わらず、確信的に恐ろしいこと(決して悪い意味ではない)を言ってのけます。今のところ本紙編集長は、彼女の確信に対抗するだけの議論ができるとは思えません。
しかし、編集長なりに、この一言に影響を受けいろいろなことを考えました。「建築って何なんだ?」、「建築のもつ力」、「建築の目的について」などなど。そして、とりあえず考えたことは書き留めておこうと思いました。結論なんか出そうにない話ではありますが。おつきあい下さい。
彼女の「建築こそが世界を変える」という確信は、建築を愛する心から生まれるのだと思います。つまり、建築のもつ力を信じていればこそですね。(ここで、こんなことを確認するのは、私自身が建築を愛してないとか信じてないという意味ではないですよ。)そこでまず「建築のもつ力?」について考えたいと思いますが、その前に「建築とは何か?」という話を整理しておかなくてはならないでしょう。
唐突ですが、このシリーズ(今決めた)は、3回のシリーズにします(そんな事を決めると後悔しそうだ)。
第1回 建築とは何か
第2回 建築のもつ力について
第3回 建築の目的について
「建築こそが世界を変える」というときの「建築」というのは、ある特定の建築物ではなく、私たちが「建築」というときに喚起される特殊な存在であることは前提としていいでしょうか?。ここで磯崎センセイの「大文字の建築」などを持ち出すと、話は拡大する一方なんですが、、、。
実は、kenchikukaさんが磯崎をどう捉えているのかについて興味がちょっとというか、かなりある。しかし、「大文字の建築」の概念を使わずに話をしようとして、辞書的語義問題に持ち込んで、またぞろ「全ては建築である」みたいな話にしても議論が続かないですよね。
磯崎さんはまぎれもなく建築の力を信じている人であって、建築に力を取り戻そうとした人だ。しかも、建築にとどまらない、とんでもないまでの博覧強記さでもって、建築を建築たらしめようと考えている人だ(と、私は解釈している)。そういう意味では尊敬する人の一人ではある。でも、好きか嫌いかはまた別の問題だ。彼は建築をやたら難しくした人でもある。実は私としては造形の巧みさにも感心していて、奈良のホールなどで見せた形の扱いなどは、ちょっと他の人にはなかなか真似できないと思う。あれをやれるだけの立場にある、ということも含めてだ。(今書きながら思ったことだけど、彼の設計した建物は良くも悪くも「作品」であると思う。)
しかし、申し訳ないが、最近の氏の活動については寡聞にして知らない。
一方で、「大文字の建築」はオウム真理教のサティアンとともに死んだという言い方もあるけれど、これもいかがなものか。一部分の世間を切り取ってそれを騒ぎ立てたところで、私たちが得るものなどない。少なくとも建築の明日を拓く議論ではないだろう。
そういう訳で、今回は、私の話をしてお茶を濁そうと思います。(濁すんかいっ!)
私たちの世代(と言って、責任を集団に負わせることはやめましょう)もとい私は、「建築の解体」(これまた磯崎さんだ)のあとに建築を学び、学校では全ては差異の戯れにすぎないとか、構造主義だとか、よくわからない言説に巻き込まれて育ってきました。
しかし、社会に出てすぐに直面したのは、そこに建物を建てねばならないという厳然たる仕事と、その建物が完成するのを待つ施主、という現実だったのです。そういう施主に対して「全ては差異の戯れににすぎないのですよ」などと言い放つだけの度量のなかった私は(いやいや、今でもないですけど(笑)、業務として「建築」を続けていくために、自分が「建築」に携わる上での何らかの確信が欲しかったのです。当時の私の状況は、まさに「主題を探すという主題」(これまた磯崎さんですね。どうも私は磯崎さんから逃れられないらしい。)を抱えているという状態でした。
と、書いていて恐ろしい(というか恥ずかしい)ことを思い出した。以前にどうも似たような話をしたことがあるんだった。「20世紀建築研究10+1別冊」(INAX出版,1998年)に、私が「主題を探すという主題」と、どう折り合いを付けたのを書いております。今読むと、若気の至りも入っていて、どうも気恥ずかしいけれど、今考えていることは、ここに書いたことと、本質的には変わりませんから、もし興味があればお読み下さい。私は2ページしか書いていませんが、先輩の松原さんが磯崎新のことや、C・アレグザンダー、ルシアン・クロール氏のことを書いています。そっちもおすすめです。実は他の人のは読んでない(さらに恥)。
本の宣伝じゃないけど、少しだけ引用しておきましょうか。
ぼくらの不全感と、始まって、象設計集団の計画の土着性の話に話が及び、最後は
建築は解体されて久しい。ぼくらは時代の空気としてそれを肌で感じている。全ての価値が相対化されつくし、すべてデザインが差異の戯れでしかない時代に建築を学んだぼくらにとって、現在の建築をめぐる混沌はすでにア・プリオリなものとして存在している。ぼくらにとっては、混沌がすべての始まりである。この混沌から生まれる建築的不全感から逃れるために、この混沌が何に起因しているのかを考えることから作業を始めたい。建築的確信を得られないままに建築に携わることはおそらく不可能だからだ。
───浅見雅之 「20世紀建築研究10+1別冊」の「建築における土着性をめぐって」より※一部引用時に改稿
ゆえにこの新しい物語が、近代と同じ道筋を辿っていずれ崩壊するだろうという予測は可能だ。しかし、この計画的土着性という物語が、地域や住民を計画手法に取り込んでいる限りにおいて、言い換えれば、場所の同一性と個人の同一性の獲得をプログラムに内包しているという点において、この物語が早晩崩壊することはないと確信できる。100の地域には、100の物語、1000の個人には1000の物語が潜んでいるに違いないからである。と、終わっています。簡単に言えば「〜主義(イズム)」みたいなイデオロギーは、簡単に消費され、早晩廃れてしまう可能性があるけれど、たくさんの地域や個人に根ざした建築のあり方というのは、なかなか廃れそうにないということです。私の建築に関する理解は、これが基本になっています。自分で自分を振り返ってみて呆気にとられるほど単純な考え方ですね。
───同上
当時、私は、私にとっての「建築」の存在を信じたい一方で、どうも現実社会では、それを実現させる機会を持ちえないというギャップに苦しめられていたように思います。現在でも、この問題をきちんと消化するには至っていない訳ですが(書いていてだんだん分かってきました)、私は知らず知らずのうちに、この問題をうまく回避するずテクニックを(良くも悪くも)身につけてしまったようです。少なくとも消火不良に苦しんでいた時期は超えました。
要約すれば目の前にある仕事という現実を直視せずに「建築」を論じたところで仕方がない。それよりも、直面した課題に最良の解答を出し続けることの積み重ねでしか「建築」の実現はありえない。という結論に過ぎないのですが、、、。そして、「それで本当に納得しているのか?」などと正面切って聞かれたら、きっとあたふたと、みっともない姿をさらすことになるのでしょう。要するに世渡りの方法を身につけただけのことなのかもしれませんね。そして、もしかしたら、それはギャップでも何でもなくて、単に私が世間知らずだったからなのかも知れません。
これで少なくとも、私にとっての建築とは何か、が明らかになってきたように思います。(え?わからない?んー。そうか、、、。確かに分からないかもしれない。)要するに私にとって「建築」とは一方で「業務」であり、その一方で自己実現の手段であるのです。建築設計という行為を通じて、どのような自己実現が可能であるかは議論のわかれるところでしょう。けれど、少なくとも、当時の私にとって、それは火急の問題だったのです。
私の自己実現の方法は建築にしかなかったのかについての検証を行わないことには、議論そのものが成立しないかもしれません。しかしそれを言い始めたら、もっともっと複雑な話になってしまうでしょう。今、それをやるのは止めておきます。
さて、建築とは何かについての私の見解は、今のところ以上です。第2回は「建築」のもつ力について検証していきます。
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「31特集記事「建築の持つ力」」カテゴリの記事
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- 建築とはなにか—建築は世界を変えうるか(1)—(2004.10.19)


コメント
No。
もう建築が世界を変えることはないと思います。
ひとのコミュニケーションが空間に縛り付けられていた時代は過ぎ去りました。いまどき建築が世界を変えると信じている人のことを「空間帝国主義(者)」というそうです。(by上野千鶴子)
建築や空間は、とるに足らないものになったんじゃないでしょうか?
それは素直に認めた方がいいともいます。その上で何が出来るか、です。
私には、現実が空間よりも先行しているように見えます。毎日、めまぐるしく、世界は変わっていっている。その現実にふさわしいものに建築を造り変えていくのが、建築家の役目だと思っています。たとえば、大学の講義はネットやビデオで代替出来る。では学生と教官が一度に集まる「講義」の意義は?そこで何が出来る?建築は人と面と向かって行なうコミュニケーションには介在できます。この特質と意義を考え直して空間をつくること。
建築が世界を変える力を持ち得ず、情報が世界を変えるのならば・・・と、「建築デザイン情報」で世界を変えようとする人が出てくる。それは磯崎であり、クールハースであるともう。
投稿: hira | 2004.10.20 21:01
今も昔も建築が目的をもっている訳ではなくて、目的の為に建築がつくられると考えるといいんじゃないでしょうか?やっぱ人が考えて作るものなんで、建築にあたかも意志があるかのような表現(および思考形態)を取るから物事こんがらがるんだと思います。
その上で具体的な与件に立脚しつつ、当事者以外にまで共有されうるような解法を探すのが僕たちの仕事なのだと思います。これはまごうことなく、建築家にしかできない面も多々あるから、その責任を甘受しながらきちんと一つヅツつくることが肝要と思います。
共有されずらいのは社会の多様化ももちろんあると思いますが、上記したような職能に対し、設計者個々が戦略をもって取り組んで、より広い(専門家も非専門家も関係なく)社会に対し、その有用性を訴えてこなかったからだと僕は思います。
ですので、僕は、自分の才能には悲観することもあるけど、社会一般で建築を通じて、建築するという行為が上記の様な社会的機能を持ちうることに関しては疑問の余地はないと思ってます。ただし、同種の機能をもつ他の職能もあると思いますから、建築するかしないかは一重にそれを職として選ぶ人間の好みなんじゃないでしょうか?
投稿: | 2004.10.20 21:52
みんな読んだね。ちょっと恥ずかしい。
見出しがセンセーショナルだったかな。
■ヒラタさん
こんなもの読んだんですか?(笑。ご示唆ありがとうございます。基本的におっしゃる通りだと思います。「空間帝国主義者」ね、なるほどね。正直言って、私は、かなり空間帝国主義が入っているかも知れません。実は「空間も建築もとるに足らないもの」という所から議論をスタートしたら、書きながらずっとわだかまってた「自分の中の何らかのズレ」が解消できるのは分かってました。でも、空間至上主義者(←ちょっと変えてみた)としては、ここで一度建築あるいは空間の力について考えてみたくなったのですね。ただ、ちょっと色んなものを背負いすぎちゃったようではあります。そこは反省。話はもう少しシンプルにしたい。さらに、下の名無しさんの議論ともつながるんですが「建築」という言葉に意味を与えすぎて、混乱した感もある。
ただ、何をどう作っていくかという、ものすごく実際的で身体的な問題に際して、建築がとるに足らないものと言い切れない私と、とるに足らないと思っている私とをつなぐ確信が欲しいと思っているという面はある。なんていうか、直感と論理が乖離しているというか・・・、そんな高尚なものでもないけど・・・。このあたりはまた近いうちに整理します。
あと、ヒラタさんのおっしゃる、建築の特質と意義については、もう少し考えてみたいと思っています。その特質と意義をどう理解して何をどう作るかという所に、私が今問題にしようとしている課題があると思っています。
■名無しさま
ご訪問ありがとうございます。文体からなんとなく、どなたか想像できないこともないですが・・・(笑。
ご指摘の通りかと思います。上にも書きましたが、少し「建築」に意味を与え過ぎ傾向のようです。どうも議論が整理できていないのは、スタートが悪いからでしょう。その「建築にあたかも意思がある」ことへの違和感が、「 」つきの「建築」なんていう変なものを出現させてしまっていることに気づきました。
さて、「当事者以外にも共有されるような解法を探すこと」が職能(=社会的機能=有用である)というのはシンプルで分かりやすいです(そういう理解でいいんですよね?)。私としては「与件から、解決すべき課題を発見すること」も職能の一部と考えますがいかが?むしろそっちが大事とも思えるんですけど、どう思いますか?
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皆さんのご意見を踏まえて、少し議論の方向を見直してまた書きます。できれば、飽きずにまたご批判下さい。
基本的には「建築」の「 」をはずすこと(字面だけじゃなくてね)とを考えます。で、なんかいろいろ言ってはみるけど「じゃ、実際、どうすんのさ」話をしてみたいなあ。時間切れです。またあとで。
投稿: あさみ | 2004.10.21 13:02
あさみさん、こんばんは。はじめてこちらでコメントします。
まずはじめに、感謝したいことがあります。情報の受信者が今度は発信者になり、さらにそれを受信する人がいて・・・、というリアクションの連鎖が、web上でわたしに関して行われたことに、とても感謝しています。同じ温度で話がなされている事実に確かな手ごたえを感じます。そういうことなんだろうと思っていたことが本当に起こる感激です。
つぎに、あさみさんは大変勇気がある方だ思います、建築に対して。その姿勢は、あさみさんの文章の背骨となっているのでしょう。
シリーズのゆくえをとっても楽しみにしています。どうなるのかな~とわくわくする気持ちなんです、ホント。また来ますね。
投稿: kenchikuka | 2004.10.21 19:02
名無しは202でした。すみません。
ココに書くときはsafariに切り替えているので、入力し忘れてしまいました。
投稿: 202 | 2004.10.21 19:42
■kenchikukaさん
引きずり出しちゃったみたいでごめんなさい。シリーズ第2弾は用意できていたのですが、いろいろなご意見いただいたので、今、見直し補強中です。実はhiraさんのご指摘から小さな着想を得て、それを埋め込みながら展開しようと思っています。シリーズ第4章が増えるかも。
■202さん
文体・論旨から、そんな気はしていました。いつも私が「うにうに」と考えていることに対して、すぱっとその「うにうに」の本質を見抜き、的確なアドバイスをくれるのはあなたです。いいかげんあきれてるんじゃないかと思わないでもないけど、相変わらずこんなこと考えているってワケ。今後ともあきずによろしくね。
投稿: あさみ | 2004.10.22 13:25