9坪ハウス狂騒曲(萩原百合)
家でどんなふうに過ごしたいかを建築家に的確に伝えることは、とても大切だ。日々の過ごし方がはっきりしていれば、どんな住まいの箱をつくりたいか自ずと見えてくる。住み手がひとりでない場合は、暮らす人それぞれが家でどんなふうに過ごしたいと望んでいるのか、まず話し合ってみることが先決。夫婦といっても、生まれも違えばこれまで育った家も違う。最初から住まいに対する考えが一致するはずないんだたら。(中略)・・家という箱の中でともに暮らすことが前提である以上、話し合いは避けて通れないし、考え方の違いは平行線のままであるにせよ、お互いを知り、お互いがお互いを理解し合おうと努力していかなければ、心地いい暮らしなんて実現しないと思う。実はこの本、タイトルにあまり惹かれずに、かなり長いこと読まず置いていたものです。本との出会いの面白さはこういう所にありますね。時期を外していたら読み飛ばしていたに違いない文章が、今だから、読むと心に残ります。
──萩原百合,「9坪ハウス狂騒曲」マガジンハウス社,2001年
萩原さんの家づくり。ご主人が、増沢洵の最小限住宅の軸組(実物ではなく展示用に作られたレプリカ)を手に入れることになってから、土地選びの様子や・建築家とのやりとりを「女施主」の立場から描いています。文章も上手で読みやすいし、読み物として純粋に面白いです。何より素敵なのは、増沢洵の最小限住宅の美しさに負け、積極的に増築をあきらめ、いろいろと苦労しながらも、最後はシンプルな住宅をかなり上手に住みこなしている様子。
引用したのは、住宅を建てるときに誰もが直面しなくてはいけない問題で、住宅設計に際して誰もが通り抜ける関門のようなもの。実際住宅の新築をきっかけに仲良くなったり、仲悪くなったりするご夫婦がいてもおかしくはないでしょうね。
まちづくりでも建築設計でも同じことですが、異なる主体が集まって、一つの目的に向かおうとするとき、そこでどうしても必要なのはコミュニケーションです。誰もがフラットな立場で、自分の意見を発言でき、それを皆で理解し、共有していく。簡単なようで、なかなか難しいことだと思います。どうしたって声の大きい人や、立場の強い人の意見に左右されがちです。多種多様な人たちが集まっているからこそ、新しい価値が生まれ、新しい世界が切り拓けるというのに、その機会を逸してしまうのはもったいないことだと思います。
私は、そういう多様な主体によるコミュニケーションの潤滑剤のような存在でありたい。
この萩原さんの場合も、ご主人や、設計者の価値観・娘さんたちの意見に耳を傾けながら、よりよい結論に向け、だんだんと新居設計に主体的に関わっていくようになっていきます。その過程が、とても素直な当事者の視点で描けている好著です。
で、全く、知らなかったのですが(無知というのは恐ろしい)、9坪ハウスってのは、今やかなり一般的な概念となっているようで、増沢洵の住宅の基本構成のもと、建築家がこれをリメイクして住むという住宅の建て方が、流行っている様子です。例えばこちら9坪ハウスをごらんあれ。
ついでに、紹介したサイト(9坪ハウス)に載っていた9坪ハウスの基本コンセプトを引用しておきます。
9坪ハウスの5原則ということなんだそうです。形式のルールが決まっていて、その枠の中でどれだけのヴァリエーションが作れるかというのがテーマであるあたりが、俳句や短歌に似ていてちょっと面白いです。形式美の世界とでも言うんでしょうか。
●平面は正方形(3間x3間)のプランとする
⇒汎用性と美学
●3坪の吹き抜けを設ける
⇒空間の連続性
●外形は14.8尺の切妻屋根
⇒単純性・合理性
●丸柱を使う
⇒構築性・柔らかさ
●メインファサードには開口部を設ける
⇒比率・内外の一体化
少しだけ増沢オリジナルの方に触れておきましょう。増沢氏は、きっとこの最小限住宅の考え方を、住宅の基本形として世間に提案し、これで世界を変えようとしていたのかも知れません。しかし、最小限住宅を増沢氏が建ててから50年、こんな形で商品化されて売られるようになるとは思っていなかったでしょうけど。
この増沢自邸、なかなか素敵です。参考サイトはこちら。平面図を手に入れたかったのですが、ちょっと見当たりませんでした。手元の建築設計資料集成にはないようです。
【参考本】
●9坪ハウス狂騒曲(知恵の森文庫)
どうやら文庫版も出ているようです。こちらの方が買いやすいでしょう。
●9坪の家
こちらは前後の事情からすると、ご主人の本ですね。未読。
●住まいの探究—増沢洵1952‐1989
増沢洵の作品集です。未読ですが、内田祥哉氏が巻頭に論文を寄せています。編集は平良敬一氏。もちろん件の自邸も載っています。
| 固定リンク
「11書評欄 (読書日記)」カテゴリの記事
- 家づくりのススメ(2008.04.16)
- 県庁の星(2005.11.29)
- 住宅の間取りの楽しみ方に関する一考察(2005.05.26)
- 夜のピクニック(2005.05.03)
- ネット王子とケータイ姫(2005.04.06)


コメント
建築資料集成の総合版じゃなく、住居というやつを、三宮のジュンク堂でチェックしました。平面図が載ってました。やっぱり狭い。かなりぎりぎりの設計ですね。やっぱり想像していた通り、アレンジしようとすると、水廻りで苦労しそうなプランです。
投稿: あさみ | 2004.10.18 16:39
資料集成ではなくて、建築資料研究社で出している、住まいの探求(だったけな)というご本人の作品集が比較的安くておすすめです。カナバカリも出てますよ。
私見を述べますと。増沢さんは『工法マニア』な部分があって、最小限住居という建築計画的な発想および野望はあまりなかった様に思います。むしろ、工法がリミットまで形式化されていることを、読み直したのが、萩原さんや小泉さんの功績のようなモンだと理解。このあたり、例えば黒沢隆さんの『個室群住居』なんかよりはフレキシブルなシステムです。
で、なんで、増沢邸が良いかというと、ズバリ、設計者自身が等身大で作っている家だからだと思います。これをコアのあるH氏のすまいが、僕的には増沢さんの作品で好きなもので、両方とも、工法だけではなくて、若き建築家がクライアントと共有している生活像の様なもんを垣間みることができます。工法の使い方もある意味では、柔軟で、清家清さんらにも通じるおおらかさがあるんですよねー。
ところが、晩年に近づくと、イズムもスタイルもなくなって工法マニアになっていきます。ココ残念。こういう息切れの仕方は池辺さんになんかにも感じます。
この時期の名作住居は、概ね、広い敷地(母屋がある)に若世帯のアネックスとして成立していることも注目すべき点です(清家清のわたしの家なんかもそうです)。つまり、建ち方や暮らし手の側からも建築物の容器に対する要求が単純化されている訳です。この様なハードとソフトの一体感が、ほんの一瞬だけ、成立した幸福な時代の所産という印象をもつし、型として、こいつを原型にしてどんどん展開していこうというプロトタイプとはちょっと違う切り口もってると思います。
投稿: 202 | 2004.10.19 20:43
イチローくんですよね。お久しぶりです。ご訪問ありがとうございます。住まいの探求は、その存在だけは知っていて、いずれ手に入れようと思っています。本文にリンク入りで参考図書として上げてたんだけどな。
とにかく「今さら9坪」なわけで、増沢やらRIAやら清家やらに、今さら注目している無知な私であるわけで、こんなすごい住宅があったんだなあと、ホンマに今さら(しつこいか)感心しているのです。「何も足さない、何も引かない」(これもすごいコピーだと思うけど)。そういう世界が展開しているなあと思うわけです。
この頃の増沢さんだったら、本当に「建築で世界を変える」なんてことができたのではないかと、なんとなくそう思っています。
イズムとかスタイルについては、思うところを書き始めたので、そちらもお読み下さって、ご批判をいただければありがたいです。
それではまた。
投稿: あさみ | 2004.10.19 23:45
ども。
どーも視点がずれちゃうなぁ。インターネットはむずかしいです。
『世界かえちゃる』とは思ってないと思いますよ、あるいは、その時点での現状把握が適切だから、きちんとつくりかたが整理できているだけだと思います。その時の現状認識というのは増沢自身からみた世の中でしょうね。故に等身大。等身大故に他者にも共感されるというわけです。
いきなり世界相手にしてもドンキホーテになっちゃいますからね。
投稿: 202 | 2004.10.20 21:39
うーん。確かに難しいなあ。その時点での現状把握が適切だから、きちんとつくりかたが整理できているだけだと思います。というのはまさに全くその通りだと思います。そうでないとこんなのはできないからね。
その上で、やはりあのプランには、そこに見られるシビアさ加減を含めて美しさがあると思うのです。そこにカンドーして興奮しているのが私です。
「世界を変えちゃる」は、こちらの気分による勢い余った筆滑りぐらいに思ってもらったらいいですけど、、、。やっぱり「世界を変える」ってのがセンセーショナル過ぎるのかな?そんな大きなこと考えてないんですけどね。でも、字面通りだと話がでかいのか。反省。また補足します。
投稿: あさみ | 2004.10.21 13:36
さらに追加。
改めてコメントを読み返して、増沢さんが若い頃の住宅と知りました。かなり設計をこなした後のものかと思っていた。それもちょっと、すごいな。なかなかできないよ。若いからできるって話もあるけど。
で、世界を変えるって話の続きですが、
どこかで読みましたが、この9坪自邸。狭い狭いと思っていたけど、当時の公庫融資基準からみたら、そんなに狭いものでもなかったらしいですね。でも、当人は最小限として発表しているんですよね?。その話を知って、増沢が、住宅にとってはこれが最小限なんだという意見表明をしたものと思い込んでいるんですけど、違いますかね。その行為そのものが、すでに意見広告というか、思想の表明のような気がしているんです。
プランの潔さと相まって、世の中の常識やら何やらと戦いながら、住宅の可能性を批判的精神で切り拓こうとする建築家像が、私の中では勝手に作られていたのでした。どう思います?
投稿: あさみ | 2004.10.21 14:24
歴史的経緯を申し上げますと(っていうか、編集長は歴史研ではないですか!)、あれは増沢がまだレーモンド事務所に居た頃に設計した自邸で、同種のものを数件あとで設計しています。初めのころは『最小限住居』という説明よりは、増沢自邸みたいな紹介が多かった模様。
で、センセーショナルかどうかはおいといて、安藤忠雄の住吉の長屋の方がセンセーショナルなのは自明。そもそも自邸でアネックスみたいものなので、コンパクトにハンドリングよくまとめているという感じがまずします。当時は、核家族なんて概念も無い頃なので、夫婦二人で新婚住まいという結構甘美な感じもしますし、、、イズムとは到底ほど遠い建物じゃありませんか?住宅にとって最小限というより、自分たちにとって等身大って話だとまずは思います(ここで、またしても、編集長は建築を主語にしている様だ)。
僕が増沢に共感するのは、まさにこの部分で、大文字の人じゃないんですよ。工法とか、そういうスキルの面では洗練されているけど、主題の見つけ方は(その当時では)無理が無い。ココ大事だなと思います。
しかし、一定度の反復もあったようだし、ある意味ではプロトタイプと呼べないこともありません。初期の難波さんの箱の家も、この構成を下敷きにしたものでした(面積でかいけど)。スミレアオイハウスも同様です。ここでは、イズム云々は別として、工法のレベル(あるいは工法と喧嘩しないプランニングのシステム)の徹底度のようなモノが有効だった様にも思います
今の視点で見て『新鮮』『思い切りが良い』『惹かれる』という具合に、読み替えられるのは名作の常だと思いますが、まずは、どのような背景のなか作られたものかということをきちんとみてみるのも大事だなあと僕は思いますよ。僕は等身大でものを作っていることには惹かれるのですが、あの住宅が9坪であることは全然評価していません。それだったらコルビュジェのカンプマルタンの方がよっぽど好きです。つまり、実体的な部分より、広い庭に若夫婦の空間をそっとつくって中で楽しく暮らすという全体性の中で決められた各部位のあり方(机とか手すりとか、あはたまた階段とか窓とか)がすごくぴったしはまっている点に共感を覚える訳です。
だから、例えばこれとは反対に、お金があるなら大きい家をたてる。で、豪邸は建築の問題じゃないなんて言い切らないで莫大な物量の家具や所有物とどのように折り合いつけて人が暮らすのか?もまた建築の目的として挑みがいがある問題だなと思います。いえ、今、たまたま約60坪の平屋の住宅をやっているからなのですが、、、
萩原さんのスミレアオイハウスの建ち方も僕が冒頭ふれた部分をひきづってます。多分、萩原さんは建物から想起される夫婦二人の暮らし方に惹かれたんじゃないかな?あれは構造体をまず購入してそれから敷地を買った訳ですが、三鷹の生産緑地に面しています。これがはかなくも、一般解としての部分と特殊解の部分を良くしめしている訳ですね。つまり、安藤忠雄の住吉のような敷地じゃ十分のあの住宅は良さを発揮できないわけで、極力オリジナルに近い土地を選ぶことを必要としたということです。で、9坪に代表されるプロトや難波さんの箱の家はここで、スペシフィックに変形されてしまう訳です。
投稿: 202 | 2004.10.21 19:29
ここまで書いて気づいたのですが、高々一設計者の私としては、やはり、増沢さんの自邸の影響力みたいなものが等身大のまなざしから誘因されたものとして勇気づけられるのです。
建築になにが可能かといえば、例えば、時代を経てもその建物に相応しい敷地探しから始まる家づくり(というややとっぴな例)を引き起こしてしまうような、世界観を提起できていることなのかなと思います。
目先の要望で建て主と設計者があーだこーだ作っているものは『建物』、上記したように第三者を時空を超えてまきこめる建物を巡る出来事の総体が『建築』。こうして便宜的に物事を分けて考えていると、建物が建築たりうるかという審判には『時間』を要すると思います。で、時間に堪えられるものをその都度のプロセスの中から編み出して行こうという意識をもっている人が、建築家なんだと思う訳です。
違いますか?建築を人格化したり神格化したりするよりはいろいろ手がかりありそうだなと思いますけど、、、、まあ、この種の議論はぜったいモヤモヤがすっきりする訳じゃないし、すっきりしたって、じゃあ、実際どうすんの?という話には未来永劫ならないので、むずかしい訳ですが、、、、
投稿: 202 | 2004.10.22 19:38