僕たちは何を設計するのか(1)―隈研吾(2)
書いているうちに飽きてきてしまうので、果たして隈研吾(その3)があるかどうか分かりませんが、書いちゃったものは仕方ないので(その2)をお送りします。
そもそも、この本を読み始めたのは「最近のケンチク」っていったいどうなっているんだ?という興味がきっかけなので「最近のケンチク」について分かればそれでいいようなものだが、読めば「最近のケンチク」を嘆かざるを得ず、ただ嘆くなら少しきちんと書いてもいいだろうと、そういう興味で書いている。
さて、隈研吾を読み進む。
隈研吾氏ってのは基本的に流行にピリオドを打つ建築家である。遅れてやってきて、流行モノをかなり諧謔的な視点でかつ(ケンチク的には)上手にやってのけ、もうその流行には新しい回答が存在しえないことを示す。そういうカッコいい建築家である。(と私は信じて来た。例といえばM2だけのような気もするが)
さて、インタビューの中で氏は「貫通した穴の向こうの環境を見せる」という自作に共通したポイントに、ある時点で気づいたという。曰く「穴プラン」だそうだ。ここで私は一度止まってしまった。そういうことに後から気づくという頭脳の構造が理解できないからだ。まあ、ここはやはり大先生の言うことだから、多少理解できなくても仕方がないと思い。読み進む。
さらに氏は語る。
「境界面にどんなにたくさん穴をあけても、まず、外と内を貫通する大きな関係性が欲しい、外に居たものがいつのまにか体内に入り込んでいて、体内から外を見るという関係性が欲しかったんだ」
と、氏自身が思っていた、ということに気づいたと。
引用が多くなってしまうが、さらに氏はこうも語るのだ。
「僕の場合、穴の方が目的化しているじゃないかな。建築って物をつくることが目的ですよね。普通は。」
ずっとおかしいなと思い続けてきたが、失礼ながらここまで来るとほとんどギャグにしか聞こえない。私にはかなり笑えたが、氏はいたってまじめのようである。インタビュアーも取り乱していない。最近のケンチクってこんなことになっているのか?と悩みながらも、気になった点を掲げておく。
氏は、建築の目的を物をつくることに限定し、それが普通だという。ここからして、既に私の現代感覚からずれてしまう。確かに究極的には、建築の目的は物をつくることにあると言って間違いではない。しかし、建築家とはそれだけの存在ではないはずだ。
しかも「ボクの場合穴が目的」などとのたまうのは「ワタシってぇ。ほら、まじめ?っていうかシャイな人だからぁ。」などのような、ギャルなネエちゃんが、自己批評をしている会話とあまり変わらない。
馬頭町の美術館に、一体何が求められたのか、美術館としての性能をどう発揮させようとしたのか、そういった建物が本来持つべき基本性能に無自覚なまま「体内にいつのまにか入り込んでいるようなケンチク」を目指すという、その方法論に問題があるとはお思いにならないのだろうか?
穴が目的でケンチクを作っていていいのだろうかと思わずにはいられないのだ。
もちろん、この本(雑誌?)は、おそらく建築を専門にする、あるいはしようとしている学生や、若い社会人の目にしか触れることはないだろうから、そういう前提で隈先生は語っているともいえる。いや、絶対そうに違いない。こんなことばかり言っていてクライアントから設計の発注があるはずがないのだから。
また中途半端なところで切れてしまう私の読書録なのであった。ちゃんちゃん。
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