2008.04.16

家づくりのススメ

『家づくり、行ったり来たり』の「「家づくり物語」——友人が書いた本をオススメする
『ちはろぐ』の「『家づくり物語』
『谷中M類栖』の「朝妻義征 著『家づくり物語』

に、それぞれトラバ

本日は、私の知人の著書を紹介させていただきます。
上記トラックバック先にきちんとした書評が出てますんで、そちらをご覧いただいた方が「タメ」になるのではないかと思いますが、せっかく著書をいただいたので、感想込みで、本日の記事とさせていただきます。

家づくり物語
実は著者である朝妻さんからご本をお送りいただいたのですが、これが非常に面白い本でした。実は朝妻さんのことは、本紙の記事「「イイ」の発見」で紹介させていただいております。

さて、この本、家づくりを考えている全ての皆さんにおススメです。
知り合いだからじゃなくて、良い本だからおススメするんですよ。

家づくりを考えている人向けに書かれたこの本は、おそらくいわゆるハウツー本の部類に入るとは思うのですが、巷の家づくりハウツー本とは全く趣を異にしています。

なぜなら

「こんな工法がおススメ」とか
「収納はこうすると便利」とか
「欠陥住宅を避けるためのコツ」とか
「ハウスメーカー・建築家の選び方」とか
「こうすればローコスト住宅が可能」とか

そんなことは一切書いてないのです。
それどころか「正しい方法なんてない」ことを強調してすらいます。

あ、今「そんな役に立たない本なんか読みたくない」とか思いませんでしたか?
でもそれはちょっと待って。まあまあ、話はゆっくり最後まで聞きたまえ。

この本が、家づくりを考える人たちに繰り返しすすめているのは

「自分が何を求めているのかを明確にしてみよう」
「将来の生活像をきちんと描いてみよう」

ということに尽きます(いや、そんな断言しちゃったら失礼か・・・・)

あ、今「そんな説教臭い本なんか読みたくない」とか思いませんでしたか?
でもそれはちょっと待って。まあまあ、話はゆっくり最後まで聞きたまえ。

家づくりに限らず、どんな行動に関してもそうですが、得たいと思っている結果がきちんと思い描けていない人が、より良い結果を残すことはできません。で、案外その「将来像を描く」ことができていない人は多いものです。いや、それができてないことに気づくことすらできてない人が多いと言うべきでしょうか?

家づくりで重要なのは、住まい手がきちんと自分の生活像を持つことだというのは、編集長が常々主張していることでもあります。生活像のないところによい家は建たないし、ついでに言えば、将来像のないまちづくりで、よいまちができるはずがありません。

では、その将来像とやらは、どのようにしたら得られるのか?実はそこに建築プロデューサーである朝妻さんの主張があるのです。

こんな風に書くと、なんか説教臭い本に思えますが、そこはそれ、「家づくりに悩める主婦「桂子さん」の前に、家づくりのオヤジ妖精が突然現れる」という信じがたく破天荒かつご都合主義とも思える設定にいつの間にか引きずり込まれて「ふむふむ」なんて、割と抵抗なく最後まで読まされてしまうのが不思議なところ。結構最後まで一気に読めちゃいますよ。

編集長が常々考えていることでもありますが、せっかく高いお金を出して家を建てるのであれば、その設計・建設プロセスやその後の生活も含めたトータルな「家づくり」を楽しまない手はないと思います。そして、そのためのヒントというか、その入り口に立つための心構えのようなものを身につけるにはこの本はもってこいの本ではないでしょうか。

家づくりを考えている人は、巷にたくさんあるハウツー本を読む前に(後からでも間に合いますが)是非読んでみてください。情報がたくさんあって、何が何だかわかんなくなっちゃってる人にもおススメです。

自分の「家づくり羅針盤」を手にするために最良の一冊

と思いますよ。

■本紙関連記事(どれも随分以前の記事ですが・・)
「イイ」の発見──────(hiraさんのコメントもぜひ!)
施主と設計者の関係について(この記事わりと評判よかったのよね)
建築家の存在って─────(家づくりは楽しいって話です)

2008 04 16 08:00 午前 [11書評欄 (読書日記)] | 記事 | コメ (5) | トラバ

2005.11.29

県庁の星

まあ、なんか「手に汗握る役人エンターテインメント」とか言ってもさ、で「スーパーの女」とどこが違うんだ?と問われたら、違わないのよ、実際。でも、こういう予定調和の感動サクセスストーリーには弱いわけですよ。編集長は‥。ってことでお許しを

帯の裏面によれば、「役人意識構造改革ストーリー」なんだそうですよ。S課のHさん、こんなのどうですか?(笑)貸しますよ。


あさみ051129_0055.jpg

2005 11 29 09:55 午前 [11書評欄 (読書日記)] | 記事 | コメ (7) | トラバ

2005.05.26

住宅の間取りの楽しみ方に関する一考察

間取りの手帖(佐藤和歌子,リトルモア,2003年)
現代住宅研究(塚本由晴+西沢大良,INAX出版,2004年)

この2冊がたまたま編集長の机の上に並んでいたので、これは一緒に語らなければならないと思ったりして書き始めた今日の記事です。どちらも間取り集。などと一言でいっしょくたにしたら、双方の著者から叱られそうですが、なんとなくこの2冊が並んでいるところが面白い。

前者「間取りの手帖」では本そのもののコンセプトが明記されている訳ではないのですが、賃貸住宅に見られるヘンな間取りを集めたもので、それぞれに付いている一言コメントが笑わせてくれます。「本当にこんな間取りが存在するのか?」と首をかしげたくなるモノも散見されますが、これがフィクションなのかどうかをも明らかにしていないあたりに著者佐藤氏の上手さを感じます。文章の少ないこの本から、おそらくこの本のキモと思われる部分(対談になっています)を引用しておきましょう。

SW お話を聞いていると、好きな住みにくさと、嫌いな住みにくさがあるようですね。
K  ありますねぇ。今の実家はコンテンポラリーな3階建てで、ちゃんと設計されたものだから住みやすいんですけど、単に住みやすいだけというか。それに慣れて失ってしまったものもあるのではないかと。
SW 失ったもの・・・・それは何なのでしょう?
K  たぶん遊びの感覚だと思うんですよね。無駄に長い玄関とか、ポコッと出っ張ったところとか。
(後略)
──上記「間取りの手帖」より引用

ともあれ、よほど奇怪な家に住みたいというのでもなければ、これから家を借りようとか、家を建てようかという方が参考にしようというのは危険なので一応警告しておきます。え?。コワいもの見たさ、、、、、?。うーん。止めはしませんが、「住宅は住みやすさじゃない!無駄に長い玄関とか、意味不明のドアが欲しい!」などと言い始めたら、もう帰って来れなくなりますよ。

後者「現代住宅研究」は、建築家塚本由晴氏と西沢大良氏の共著です。清家清の自邸から始まって、建築家による20世紀後半の住宅の平面図を採取しており、その意味で資料本としてでもいいから入手しておくべき一冊かと、、、。縮尺をS=1:400に統一して載せているところがニクいです。ここでは塚本氏のプロローグを引用しておきます。

われわれの評論が10年後にまったく読むに値しないものになっていたとしても、この図版のコレクションは輝きを失わないと断言できるぐらいに、日本の現代住宅は厚みがあるということを、改めて実感している。
──上記「現代住宅研究」より引用

資料としてヨイというのも失礼な話ですね。すみません。ともあれ、設計業界で話題になった住宅ほぼ全てを網羅的に収録し、これを体系的に論じているその労力には脱帽です。割合に平易な文章(建築を学んだ人にとっては、かも知れませんが)で書かれており、一つの視点から現代住宅の全貌を見渡せるような気がするという意味でもおススメ本かと。でも、家を建てたいんだけど、どんな家にしようか、と思っている施主および施主予備軍の皆さんには、あまりおススメしません、、、。いやいや、こんなのにハマって「住宅は住みやすさじゃない!コンセプトだ!」とか言い始めちゃったら建てられなくなっちゃいますよ。きっと。

住宅には様々な楽しみ方があるという意味で、なかなか面白い2冊をご紹介いたしました。(と、紋切り型にまとめてみました。)

編集長的にはどっちもかなり好きな本なんですけどね。

※「間取りの手帖」の著者 佐藤和歌子さんには、著書としてこの続編である「間取り相談室」というのもあります。「間取りの手帖」よりも「相談」と「回答」という形での文章部分が多く、「狙った」感が前面に出ている気がしてしまうので、編集長的には前著の方がスキです。しかし、トンデモ間取りの勢いはとどまる所を知らないという感じで面白いですよ。興味のある方はそちらもご覧になってはいかが?。

2005 05 26 08:42 午後 [11書評欄 (読書日記)] | 記事 | コメ (4) | トラバ

2005.05.03

夜のピクニック

本屋大賞の第2回は、恩田陸「夜のピクニック」だそうです。

恩田陸さんの本は、基本的に文庫で読むことにしているので、新刊情報に疎いのですが、あの「博士の愛した数式」をメジャーにした本屋大賞とあっては読まざるをえません。早速読んで見ることにしました。

アマゾンからのメールに書かれていたコピーは

「ノスタルジーの魔術師が贈る、永遠普遍の青春小説。」

でした。
恩田陸さんが、ノスタルジーの魔術師かどうかはよく知りません(笑。が、編集長が読んだ中では「六番目の小夜子」や「球形の季節」など、学園モノがお得意なヒトという印象は持っていました。


さてその「夜のピクニック」ですが、なかなか良かったですよ。

編集長の評価:★★★★☆
おススメ度 :★★★☆☆

くらいかな。

ごくごく当たり前なストーリーなんだけど、夜中歩く学校行事という特殊なシチュエーションが見事に普通のストーリーを普通でなくしています。この学校行事の使い方が上手でした。ほのぼのしているし、人が死んだりしないし、なかなかいいと思いますよ。

という感じで、今日は以上

もし読んだヒトがいたら、感想などをお寄せ下さいませ。

2005 05 03 12:30 午前 [11書評欄 (読書日記)] | 記事 | コメ (2) | トラバ

2005.04.06

ネット王子とケータイ姫

「その昔、ケータイがなかった時代もあったと聞いた。人々はいったいどうやって暮らしていたのか。私はそのことを想像しながら、このレポートを書いてみたいと思う。」
──「ネット王子とケータイ姫」(香山リカ+森健,中公新書,2004年)より

本書のあとがきから、著者の一人、香山リカ氏が2004年に大学1年生に課したレポート課題の提出物の書き出しを引いているところから引用しました。すごいことになってんのね。今や。

さて、

子供たちに携帯電話やパソコンを、どんな時期にどんな与え方をするのが良いのか?と言われても「ケータイもパソコンも道具の一つ、ナイフと同じで使いようによっては危険を伴うというという意味では同じこと」だと簡単に考えていました。

しかし、この問題、この本によれば、そんなに安易に考えていてはいけないようです。

うちの娘は2才の終わりくらいからマウスを握って絵をかいてます。本人がやりたいと思えば、何でも面倒みながらやらせてみたい。3才頃から大人用の包丁も持たせてみています。そういうワケで、パソコンも道具として使わせています。まだ、インターネットへの接続の方法は教えていませんが、いずれはこの、上手に使えば恐ろしく便利なネットワークの世界を知ることになるのでしょう。

しかし、ネットワーク上には良い情報も悪い情報も並んでいます。基本的にどのサイトにアクセスするか、どの情報を信じるのか、などは自己責任が原則です。しかし、子供たちが、ネットワーク上の作法を何も知らずにインターネット上を徘徊できるようになるというのは、かなり問題があると言わざるをえません。誰かが、ネットワーク上での情報の扱い方、コミュニケーションの仕方などを、正しくきちんと教えてやる必要があるというのは当然だと思いました。それが、この本がうたっている「メディアリテラシー」ということなのでしょう。

ネット上の書き込みが原因での子供たち同士の殺傷事件などが報道されたりしていますね。ケータイ経由の出会いサイトを利用した援助交際の話も聞きます。そうやって考えると、メディアリテラシーを子供たちがどのように身につけて行くのか、そして、もしそれを教育で補うとしたら、それをいったい誰がどんな責任のもとに行うのか、というのが現代の子供たちを取り巻く大きな課題なのだということを改めて認識しました。

と、書きつつ、、、。ネットが原因の事件だからちょっと目立つだけで、子供同士のいざこざなんて実際にはどこででも起きていることではあるんですよね。

この本には、ネット上にしか友人がいない、とかネット上にしか心を開いて話をできる人がいないなどのネット依存症の子供の例も出てきます。大人たちは何だか分からないものに依存している子供たちが気持ち悪いのでしょう。世の中にはアニメに依存している人だって、母親に依存している人だっているのですから、ましてや懐の深いネットに依存する人々が生じるのは当然といえば当然。

と、統計的根拠も何もないままに、推論を展開するのもどーかと思うので、これくらいにしておきます。

ウチの娘には、酸いも甘いも苦いも辛いも嗅ぎ分けられる、たくましくてしなやかな感性をもった人へと成長してほしい。学校だけに任せるワケにもいかないけれど、世の中の大人が、インターネットの世界を正しく認識して欲しいと思わずにはいられません。

ライブ○ア騒ぎなんか見てるとさ、どうも大人たちは「それ以前」のところでつっかえちゃっているんだよね。早く目を覚ました方がいいと思うんだけどな。

2005 04 06 06:00 午前 [11書評欄 (読書日記)] | 記事 | コメ (1) | トラバ

2005.03.04

「淋しい狩人」のススメ

出張の行き帰りにはたいがい本を読んでます。(もちろん行きは必死で仕事をしてるときもありますが)今日は新しい本がなかったので本棚から拾ってきました。宮部みゆきさん。彼女の作品の中では、この「淋しい狩人」と「初ものがたり」が特に好きです。
ホントにおススメよ。宮部さんは賢い男の子を書かせたらぴか一ですね。この作品では男の子の家庭環境が特によい。少しビールが入ってればこれで泣けます。

「淋しい狩人」(宮部みゆき、新潮文庫、1997年、ISBN:4101369178)

ということで(?)和田山での仕事が一段落。その開放感からちょっと酔っ払ってのケータイからのアッブでした。でも、まだまだ年度末は続きます。

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「ススメ」シリーズ。結構気に入ってます。マイブーム状態。

2005 03 04 06:30 午後 [11書評欄 (読書日記)] | 記事 | コメ (0) | トラバ

2005.03.03

「進化しすぎた脳」のススメ

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真鍋弘さんのkomachi memo2にトラバです。ここで知ってどうしても読みたくなった本をご紹介。真鍋さんの言う編集の良さってのが、編集素人には分からないですが、直感どおり、とんでもなく面白かった。

(授業の最後の場面より)
僕が今回きみらに話した内容の中で、噛み砕いて説明するために結構思い切ってしゃべったことがいっぱいある。厳密な話をわかりやすくするために、細かい部分をはしょってしゃべったところもある。その意味では今回しゃべった内容はすべてが正しいというわけではない。そもそも、わかってないことが多すぎるしね。

(「おわりに」より)
講義は、池谷裕二という今後も成長を求め続ける人間による脳科学観の、現時点での足跡です。ここには現在の私の姿勢が投影されています。そして、私自身が高校生の頃にこんな一連の講義を受けていたら、きっと人生が変わっていたのではないかと思うくらいの内容と密度だったと、自分では自負しています。
──「進化しすぎた脳」(池谷裕二著、朝日出版社、2004年、ISBN:4255002738)

いやはや。こんな面白い科学の本に出会えるとは思いませんでした。

中高生を相手に大脳生理学者(薬学博士)である池谷さんが語ったことを、そのまま(のような形で)本にしたもので、ばりばりの文系人間である編集長にも、最後まで面白く読める内容でした。久しぶりに、かなり興奮しながら本を読み終えました。

分かりやすくて面白かった。「脳が体を支配しているのと同時に、体も脳を支配しているということ。」「脳が複雑に出来ているのは、あいまいさを生み出すためであること」など目からウロコなネタ満載。脳に電極を埋められラジコン化したネズミにはどこまで自己があるのかとかね。

惜しげもなく最新のネタを(先週のネイチャー誌からの引用とか、来月発表予定の論文とかから授業のネタを拾ったり)使って、最新の科学の知識とその限界を垣間見せてくれるレクチャーの手法は、すばらしいのひとこと。いやあ、授業受けたかったなあ。


学者さんとしての能力は、専門外なので全くわかりませんが、わかりにくい話を高校生に教えるにあたって、内容を噛み砕きはしても、高校生をナメた態度をとったりしない、なかなかフランクでかつ格調高い授業だったのではないかと思います。きっと高校生たちは楽しかっただろうな。

人を教える立場にある、あるいは科学を社会をつなぐ立場にある(編集長の古い友人にも、そういう立ち位置を自ら選んで健闘している人がいます)全ての人に読んでほしいです。

で、この池谷さん、編集長と同世代。実は、私が2歳上です。最初は、自分と引き比べて、なんだかうらやましいような、情けないような気分になりながらも、池谷さんには拍手。私も、そろそろこれまでの蓄積を活かした発信系の仕事がしてみたいなあ、などと池谷氏に触発されて、大胆にもそんなことを考える編集長なのでした。

というワケで編集長に授業をして欲しいかたはコメントにてお申し出下さい(笑

2005 03 03 10:55 午後 [11書評欄 (読書日記)] | 記事 | コメ (4) | トラバ

2004.12.08

建築ツウへの道

さて我々「建築ツウ」としては、21世紀に入って起こった「ちっちゃな」住宅建築ブームと宮脇檀の死とに因果関係を認めざるを得ない。特に我々修行嫌いの建築家にとっては、宮脇本は「隠れたバイブル」であり、みな「こそこそ」拝見しており、事務所内の見えるところには置かなかった本ナンバーワンである。
しかし彼の死後「ちっちゃな」建築家は皆大手をふって宮脇節をぶちまけている。「天井が高いのは成金趣味ですわ・・・」「対角線でこう、視線を開かせて・・・」と。「教条的、べき主義者」を嫌った宮脇檀が結果として壮大な住宅設計マニュアルをつくり出してしまったということは何とも皮肉な話である。
──宮脇檀の虚無性 「建築ツウへの道」(大島健二、エクスナレッジ、2004年)より引用

あまり今日は時間がありません。〆切前でどたばた中。なので先日買った本から一つご紹介。引用部分、ちょっと笑いました。そうかも知れません。が、ダンセンセイってさすがです。そんなとこで許して。

2004 12 08 09:38 午後 [11書評欄 (読書日記)] | 記事 | コメ (0) | トラバ

2004.12.07

由布院の小さな奇跡

「観光というものは特別に観光のものとしてつくられるべきではないのです。その土地の暮らしそのものが、観光というものなのです。村の生活がゆたかで魅力あるものでなくて、その土地になんの魅力がありましょうか!」(中谷健太郎氏)
「由布院は、由布院らしい独自の歩き方をしなくてはいけない。由布院の地域性を生かして、由布院らしい個性的なまちづくりを続けようではないか。今は、観光客が来なくて苦しいかもしれない。しかし、そのことを継続してやっていけば、そのことが輝く時代が絶対にやってくる。それを信じて、次の時代を生きる子供たちのために、『由布院はなんとゆたかな町なんだ』と言われる町を、みんなでつくっていこう。その想いを、みんなでつないでいこうではないか」
──「由布院の小さな奇跡 (094)」(木谷文弘,新潮新書,2004年)

 日曜日に買った本の中からまず1冊を紹介しましょう。「由布院の小さな奇跡 (094)」です。仕事で地方町村とのお付き合いの多い私としては、まちやむらの活性化のための方策については大変興味があります。年末からは兵庫県のある町で景観形成と観光振興のお手伝いをさせていただくことになっておりまして、まちおこしの成功事例についてなるべく吸収しておこうと思って手にした本です。お薦めです。★★★★☆

 かねてより「スローまちづくりのすすめ」などでお伝えしてきた内容そのまんまです。引用前半部分を語る中谷さんは由布院で旅館をしている方で、かの中谷宇吉郎氏の甥御さんだそうです。(人工雪誕生の地記念碑を毎日見ていた編集長としては、微妙に反応しまくりです。)まさにその通りと膝を打つという幹事ですよね。明言です。

 引用後段の部分は、昭和30年代半ばに中谷氏を含むまちづくり活動グループが周りの人々を説得するのに使った言葉として取り上げられています。時代背景を考えるとかなり先進的な考え方です。今でこそこれぐらいのことは誰でも言えますが、当時の状況を考えたら(だってオイルショックより前ですよ。あ、でも60年安保の頃か、、。公害訴訟がそろそろ本格的になる頃でしょうか。だとすれば頷けないこともない、、、。などと独り言。)なかなか言えないと思います。開発一辺倒、右肩上がり経済絶対信仰みたいなそんな時代に「スローまちづくり」的確信がどのようにして生まれたものなのかということ。とても興味があります。

 ところでこの「スローまちづくり」でググってみましたが、本紙「あさみ新聞」しかヒットしないということは、もしかして本紙が提唱した概念と思ってもいいんでしょうか?(<をいをい、ソレハ極論ダロ)一応、ここで「スロー中心市街地活性化」と合わせ提唱者として名乗りを上げておきます。(断っておきますが、この言葉の使用に関する本紙の権利を主張しようというものでは一切ありません。皆で勝手に使ってもらって流行らせよう!というノリで、、、)

 まだ全部読んでないんですけどね。ではでは。

 だから、観光客は由布院駅を降りた瞬間、ドアボーイのような駅員に迎えられる。ホテルマンのようなタクシーの運転手に旅館やホテルまで案内されるか、荷物だけを運んでもらうかを選択することができる。そして、由布院というひとつのホテルに迎えられた気分になれるのだ。
──「由布院の小さな奇跡 (094)」(木谷文弘,新潮新書,2004年)

 素敵な観光地である。知っていたら3年前訪問した時にもう少し楽しめたかもしれない。

2004 12 07 05:39 午後 [11書評欄 (読書日記)] | 記事 | コメ (4) | トラバ

2004.11.19

それでも建てたい家

電車で但馬方面です。電車の中では仕事してるときと本を読んでいるときがあります。今日は、ヨメさんの本棚から持ち出した宮脇檀さんの『それでも建てたい家(新潮文庫)』を読んでおります。意外とかなり面白いです。ご自分にも施工者にも施主にもなかなか厳しいご意見。
若干ネタが古い感じはしますが、建築殊に住宅をめぐる状況を分かりやすく書いており、特にこれから施主になろうという方にオススメです。

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【11/20追記】
なんと、この記事があさみ新聞100記事目でした。なんだかうれしいです。まだまだ続けます。皆さん時々お越し下さいね。

2004 11 19 08:31 午後 [11書評欄 (読書日記)] | 記事 | コメ (0) | トラバ

2004.10.21

「やさしい訴え」(小川洋子)

■天から許された存在の形

「スパイスラックといってもばかにはできません」
「ええ、もちろん、そう思います」
「ラックはラックとしての、正確さと美しさを要求してきます」
「要求とは、つまり、どういうことなんでしょう」
「瓶を出し入れするのに一番適切な寸法があるし、決まった重量に耐えられるだけの強度も必要だし、デザインは台所の雰囲気に似合うものでなくちゃならない。つまり、そういうことです。どんなささいなものにも、その存在を支える絶対的な形があります。天から許された、存在の形というものが。僕はそれをなぞってゆくしかないんです」

やさしい訴え」小川洋子(文春文庫,2004年)

 昨日は、町に閉じ込められまして、手元の文庫本と取っ組み合うことになりました。ちょっとステキな文章を見つけたのでここで引用しておきます。
小川洋子さんは「博士の愛した数式」で知った作家です(それを知ったのは週刊文春だったかと思いますが)。「博士の〜」は、特殊な才能を持った、ちょっと変わった数学者と、お手伝いさん親子の物語で、美しい物語でした。以来、気になって少しずつ、この「やさしい訴え」は、夫と別れることになりつつあるカリグラフィーアーティストと、元ピアニストでチェンバロ作家との物語です。引用した部分は、チェンバロ作家が台所に作る棚について語る場面。

 私としては、もうこの文章の引用のみで終わらせてもいいのですが、本紙のポリシーとか、著作権問題とか、いろいろな理由により、少しだけ感想めいたことを書きます。この「使いやすい寸法・適切な強度・デザイン」というのは、建築設計の基本である「用・強・美」の考え方をそのままなぞっています。本質的には建築設計ってのは、これをやってれば間違いはない。

 ものごとの本質は意外と、というか当然、シンプルなもので「建築とは何か」とか言ってはみても、要するにこういうことなのよって気もするんですね。そこまで話をシンプルにするのもどうかと思うけど、でも、ものごとの本質は基本的にシンプルだからね。シンプルでないのは本質ではないのだよ、学友諸君。わはは。

 「天から許された存在の形」というのがある。と、聞くと、それは唯一無二の絶対なカタチだと思うかも知れませんが、(いや、この小説の中ではそういう意味かも知れないけど)実は、私はそうは考えていません。違う人が作れば、当然違うものになって当たり前で、天に許される絶対の形を目指してモノを作って行くことを、デザインと呼ぶのだとすれば、100人いれば100種類のデザインがあっていいわけです。

2004 10 21 07:00 午後 [11書評欄 (読書日記)] | 記事 | コメ (0) | トラバ

2004.10.15

9坪ハウス狂騒曲(萩原百合)

家でどんなふうに過ごしたいかを建築家に的確に伝えることは、とても大切だ。日々の過ごし方がはっきりしていれば、どんな住まいの箱をつくりたいか自ずと見えてくる。住み手がひとりでない場合は、暮らす人それぞれが家でどんなふうに過ごしたいと望んでいるのか、まず話し合ってみることが先決。夫婦といっても、生まれも違えばこれまで育った家も違う。最初から住まいに対する考えが一致するはずないんだたら。(中略)・・家という箱の中でともに暮らすことが前提である以上、話し合いは避けて通れないし、考え方の違いは平行線のままであるにせよ、お互いを知り、お互いがお互いを理解し合おうと努力していかなければ、心地いい暮らしなんて実現しないと思う。
──萩原百合,「9坪ハウス狂騒曲」マガジンハウス社,2001年
実はこの本、タイトルにあまり惹かれずに、かなり長いこと読まず置いていたものです。本との出会いの面白さはこういう所にありますね。時期を外していたら読み飛ばしていたに違いない文章が、今だから、読むと心に残ります。

 萩原さんの家づくり。ご主人が、増沢洵の最小限住宅の軸組(実物ではなく展示用に作られたレプリカ)を手に入れることになってから、土地選びの様子や・建築家とのやりとりを「女施主」の立場から描いています。文章も上手で読みやすいし、読み物として純粋に面白いです。何より素敵なのは、増沢洵の最小限住宅の美しさに負け、積極的に増築をあきらめ、いろいろと苦労しながらも、最後はシンプルな住宅をかなり上手に住みこなしている様子。

 引用したのは、住宅を建てるときに誰もが直面しなくてはいけない問題で、住宅設計に際して誰もが通り抜ける関門のようなもの。実際住宅の新築をきっかけに仲良くなったり、仲悪くなったりするご夫婦がいてもおかしくはないでしょうね。
 まちづくりでも建築設計でも同じことですが、異なる主体が集まって、一つの目的に向かおうとするとき、そこでどうしても必要なのはコミュニケーションです。誰もがフラットな立場で、自分の意見を発言でき、それを皆で理解し、共有していく。簡単なようで、なかなか難しいことだと思います。どうしたって声の大きい人や、立場の強い人の意見に左右されがちです。多種多様な人たちが集まっているからこそ、新しい価値が生まれ、新しい世界が切り拓けるというのに、その機会を逸してしまうのはもったいないことだと思います。
 私は、そういう多様な主体によるコミュニケーションの潤滑剤のような存在でありたい。

 この萩原さんの場合も、ご主人や、設計者の価値観・娘さんたちの意見に耳を傾けながら、よりよい結論に向け、だんだんと新居設計に主体的に関わっていくようになっていきます。その過程が、とても素直な当事者の視点で描けている好著です。

 で、全く、知らなかったのですが(無知というのは恐ろしい)、9坪ハウスってのは、今やかなり一般的な概念となっているようで、増沢洵の住宅の基本構成のもと、建築家がこれをリメイクして住むという住宅の建て方が、流行っている様子です。例えばこちら9坪ハウスをごらんあれ。

 ついでに、紹介したサイト(9坪ハウス)に載っていた9坪ハウスの基本コンセプトを引用しておきます。

9坪ハウスの5原則
●平面は正方形(3間x3間)のプランとする
     ⇒汎用性と美学
●3坪の吹き抜けを設ける
     ⇒空間の連続性
●外形は14.8尺の切妻屋根
     ⇒単純性・合理性
●丸柱を使う
     ⇒構築性・柔らかさ
●メインファサードには開口部を設ける
     ⇒比率・内外の一体化
 ということなんだそうです。形式のルールが決まっていて、その枠の中でどれだけのヴァリエーションが作れるかというのがテーマであるあたりが、俳句や短歌に似ていてちょっと面白いです。形式美の世界とでも言うんでしょうか。

 少しだけ増沢オリジナルの方に触れておきましょう。増沢氏は、きっとこの最小限住宅の考え方を、住宅の基本形として世間に提案し、これで世界を変えようとしていたのかも知れません。しかし、最小限住宅を増沢氏が建ててから50年、こんな形で商品化されて売られるようになるとは思っていなかったでしょうけど。
 この増沢自邸、なかなか素敵です。参考サイトはこちら。平面図を手に入れたかったのですが、ちょっと見当たりませんでした。手元の建築設計資料集成にはないようです。

【参考本】
9坪ハウス狂騒曲(知恵の森文庫)
   どうやら文庫版も出ているようです。こちらの方が買いやすいでしょう。
9坪の家
   こちらは前後の事情からすると、ご主人の本ですね。未読。
住まいの探究—増沢洵1952‐1989
   増沢洵の作品集です。未読ですが、内田祥哉氏が巻頭に論文を寄せています。編集は平良敬一氏。もちろん件の自邸も載っています。

2004 10 15 09:39 午後 [11書評欄 (読書日記)] | 記事 | コメ (8) | トラバ

2004.10.08

「エコミュージアムへの旅」(大原一興)

■意思を含む倫理的なもの

さらに彼女は、エコロジーの考え方の延長線上に「豊かな生活よりも正しい生活」を主唱するなど、生命、健康、安全など「生活の価値」という「意思」を含む倫理的なものとして、一貫してこの科学の領域の重要性を訴えていったのである。(Ellen H. Richards,"The Art of Right Living"(1904))
大原一興,「エコミュージアムへの旅」,鹿島出版会,1999

 仕事の関係上、現在エコミュージアムについて勉強中。「エコミュージアムへの旅」(大原一興,鹿島出版会,1999年)は、入門書としてはなかなか良い本だと思います。エコミュージアムの語源から解き明かしていくあたりが、あさみ好みです。少し思ったことを書いておきます。
でもエコミュージアムとはあんまり関係ありません。

 修士論文で歴史的建造物保存論を書いた時に、古い建物を残そうというムーブメントが一体どこから生まれたものか、歴史的な建物をいかに残していくかという議論を展開しました。古い建物ブームは、きっとエコロジーブームと関係がある、と雑な議論を展開していました。そのことは以前ここに書いておきました。その議論につながる面白い文章を発見したのでここにメモしておきました。
 ここで重要なのは「生活の価値」という「意思」を含む倫理的なものというあたりなのではないかと思っています。こうしたムーブメントは、それが「意思」で、「倫理」であるがゆえに、経済原則からだけでは成立しない(つまり算盤に乗らない)ムーブメントであり続けてきたわけですが、ここへ来てどうもトレンドになりつつある。このあたりは先般ここに記した通りです。
 トレンドになり始めたのはまさに私が学生のころ、すなわち今から十数年前からではないでしょうか。それ以前から私は、市民の価値観が変わらない限り、世の中は変わらないし、市民の価値観が変わるとすれば、それは快楽(あるいは欲望)の形が変化した時だろうと言い続けてきました。今やトレンドと言ってよいと思います。トレンドというよりも作法と言った方が正しいでしょうか。

 以前、私が思っていたのとは少し違う形ではありますが、快楽(あるいは欲望)のあり方が変質しつつあるということのようですね。もう少し突っ込んだ議論にしていきたいのですが、どうもまとまりません。というか、議論にしようもないのかな。

この問題も簡単じゃないです。ではでは。

2004 10 08 06:56 午後 [11書評欄 (読書日記)] | 記事 | コメ (0) | トラバ

2004.07.15

宮部みゆき「ICO」

 みやべさんの久々の(?)新作を本屋でたまたま発見したので買ってきました。
 みやべさん、ここのところファンタジー系多いです。ちょっと苦手です。みやべが書かなくても良さそうな感じがして、、、、。でも食わず嫌いというのは一番嫌なので読んで見る。まだ5分の1程度、そこそこ面白いですが、なかなか「ICO」ワールドにとけ込めない。
 みやべさんの作品は、レベルセブンが文庫になった頃からのつきあいです。時代物が苦手で、なかなか手を出さなかったのですが、今では時代物の方がすき。みやべさんの魅力は、少年の描き方にあると思っています。ちょっと賢い男の子を書かせたらピカイチだと思っています。これじゃ書評にはならないや。

2004 07 15 12:15 午後 [11書評欄 (読書日記)] | 記事 | コメ (0) | トラバ

2004.06.21

「僕たちは何を設計するのか」について

 これからも読書録は続く予定ですが、、、。一応断っておきます。「僕たちは何を設計するのか」。そんなに悪い本じゃないです。それなりに刺激的ではあります。いやはや、なかなか私の感覚から離れているので、ついつい辛口?になってしまっているかも知れませんが。

 まだ、青木淳氏と隈研吾氏についてしか読んでいないのでなんとも言えません。しかし、青木淳氏のところは、私にも読める内容になっておりました。特殊な施主とのせめぎ合いの中から新しい表現を生み出している、その過程が、なんとなく分かって関心を誘いました。青木さんってまじめで頭のいい方なんでしょうね。

2004 06 21 08:55 午後 [11書評欄 (読書日記)] | 記事 | コメ (0) | トラバ

僕たちは何を設計するのか(1)―隈研吾(2)

書いているうちに飽きてきてしまうので、果たして隈研吾(その3)があるかどうか分かりませんが、書いちゃったものは仕方ないので(その2)をお送りします。

そもそも、この本を読み始めたのは「最近のケンチク」っていったいどうなっているんだ?という興味がきっかけなので「最近のケンチク」について分かればそれでいいようなものだが、読めば「最近のケンチク」を嘆かざるを得ず、ただ嘆くなら少しきちんと書いてもいいだろうと、そういう興味で書いている。

 さて、隈研吾を読み進む。
 隈研吾氏ってのは基本的に流行にピリオドを打つ建築家である。遅れてやってきて、流行モノをかなり諧謔的な視点でかつ(ケンチク的には)上手にやってのけ、もうその流行には新しい回答が存在しえないことを示す。そういうカッコいい建築家である。(と私は信じて来た。例といえばM2だけのような気もするが)

 さて、インタビューの中で氏は「貫通した穴の向こうの環境を見せる」という自作に共通したポイントに、ある時点で気づいたという。曰く「穴プラン」だそうだ。ここで私は一度止まってしまった。そういうことに後から気づくという頭脳の構造が理解できないからだ。まあ、ここはやはり大先生の言うことだから、多少理解できなくても仕方がないと思い。読み進む。

 さらに氏は語る。
「境界面にどんなにたくさん穴をあけても、まず、外と内を貫通する大きな関係性が欲しい、外に居たものがいつのまにか体内に入り込んでいて、体内から外を見るという関係性が欲しかったんだ」
と、氏自身が思っていた、ということに気づいたと。

 引用が多くなってしまうが、さらに氏はこうも語るのだ。
「僕の場合、穴の方が目的化しているじゃないかな。建築って物をつくることが目的ですよね。普通は。」
ずっとおかしいなと思い続けてきたが、失礼ながらここまで来るとほとんどギャグにしか聞こえない。私にはかなり笑えたが、氏はいたってまじめのようである。インタビュアーも取り乱していない。最近のケンチクってこんなことになっているのか?と悩みながらも、気になった点を掲げておく。

 氏は、建築の目的を物をつくることに限定し、それが普通だという。ここからして、既に私の現代感覚からずれてしまう。確かに究極的には、建築の目的は物をつくることにあると言って間違いではない。しかし、建築家とはそれだけの存在ではないはずだ。
 しかも「ボクの場合穴が目的」などとのたまうのは「ワタシってぇ。ほら、まじめ?っていうかシャイな人だからぁ。」などのような、ギャルなネエちゃんが、自己批評をしている会話とあまり変わらない。

いや、ギャルなねえちゃんが悪いという訳ではない。私が言いたいのは、隈先生がギャルなねえちゃんの真似をすることで、我々になにを訴えたかったのかが不明なところに問題がある、ということだ。

 馬頭町の美術館に、一体何が求められたのか、美術館としての性能をどう発揮させようとしたのか、そういった建物が本来持つべき基本性能に無自覚なまま「体内にいつのまにか入り込んでいるようなケンチク」を目指すという、その方法論に問題があるとはお思いにならないのだろうか?
 穴が目的でケンチクを作っていていいのだろうかと思わずにはいられないのだ。

 もちろん、この本(雑誌?)は、おそらく建築を専門にする、あるいはしようとしている学生や、若い社会人の目にしか触れることはないだろうから、そういう前提で隈先生は語っているともいえる。いや、絶対そうに違いない。こんなことばかり言っていてクライアントから設計の発注があるはずがないのだから。

また中途半端なところで切れてしまう私の読書録なのであった。ちゃんちゃん。

2004 06 21 08:43 午後 [11書評欄 (読書日記)] | 記事 | コメ (0) | トラバ

2004.06.05

機会不平等

 なんかすごい本を読み始めてしまいました。ちっちゃな子供を持つ身にとって、学校の計画なんかに関わる身にとって、なかなかシビアな話題であったりします。
 まだまだ読み始めですが、読み応えありそう。どうやら、教育行政の行く末を案じている内容で、数十ページ読んで、まだ著者の明確な主張にたどり着いていないのでなんともいえません。
 しかし、なんとなく歪んでいる最近の初等中等教育のあり方に一石を投じている本であることは間違いないのではないかと思います。また、読んで感想アップします。

2004 06 05 07:16 午後 [11書評欄 (読書日記)] | 記事 | コメ (0) | トラバ

2004.04.26

僕たちは何を設計するのか(1)―隈研吾(1)

 少し前に、なんとなく現代建築の潮流が見えるのではないかと思って買った「僕たちは何を設計するのか」(ディテール2月号別冊、彰国社、2004年)が出てきたので、少しずつレビューしてみようと思い立ちました。タイトルからしておそらく若い人、あるいは学生向けの本なのでしょう、私もなんだか少し若々しい気分になって読んで見ようと思ったわけです。

 第1回は、本書2人目のインタビュイー「隈研吾氏」の登場です。

 隈さんの最近の作品を詳しく知りませんが、私にとって隈さんは「M2」の人です。自動車販売会社の建物が、アイオニックオーダーの柱になっているという、極めてキッチュで、かつ絵画的な建物でした。そういえば【ポストモダニズム建築】として華やかに雑誌上を飾っていたような気もします。発表時おそらく学生だった私には、(周囲の同級生たちは、思い切りバカにしてましたが)非常に素敵な【作品】に見えました。それは、そのキッチュさが、他の所謂【ポストモダニズム建築】の追随を許さないまでに極められていたことにあります。所謂「ポストモダン」もここまでできればそれはそれで一つの世界観であるなあ。と思った記憶があります(当時はもう少しあこがれに近い感情が入っていたような気もします。恥ずかしいけれど)。ある意味、私の好きな建築家の一人といえるでしょう。
 その後、新建築に発表された海外のコンペで、えらく【環境に優しい】提案をしていたのを見たきり忘れていましたが、お元気に活躍されているようで安心しました。

さて前置きが長くなりました。本題です。

 隈さんは「素材原理主義とは違う、ある種の新しい正直さみたいなものがディテールの中にあるべきだと思う」という。分かったような分からないような言い回しではあります。原理主義云々はおくとしても、ディテールの中に宿るようなある種の正直さを「新しい」と感じる感性にこそ問題があるということはないか?と考えてしまいました。
 ディテールってなんなんですかね。ある種の正直さってなんなんですかね。
 少なくとも、素材や技術と建築とを結ぶ作法あるいは言語としてディテールを捉えるならば、そこに新しい正直さなんか(新しい正直さってのがなんなんだかわかんないけど)あるはずがないんじゃないか。あるとすれば、それは、素材や技術の新しさなのではないかと思うのです。わかったようなわからないようなことを言ってみても、結局、隈さんが何か新しいことを言っているわけではなさそうです。(いや、隈さんにとっては新しいのかもしれない。それとも、感動できるテクニックの問題なのか<これはあさみメモ、今のところ読んでいる人には意味不明だと思う。)

 隈さんの話は、一事が万事この調子です。

 例えばインタビューの冒頭で、インタビューアである安田光男氏に、「僕たちは、内部で完結した空間=世界をつくることを目的とする建築がある一方で、周辺や外部環境と積極的な関係を持つことで成り立つような建築がありえる」と聞かれ、「建築とは孤立した形態ではなく、外部との関係性である、というのが僕の基本スタンス」だと答えます。どうしてそれがM2になるのか全く分かりませんが、それはここではひとまず措いておきましょう。
 もう既に安田氏の問いからして的をはずしているような気がしますが隈さんもまともに答えてしまう。いきなり、何か寒々しく痛々しい感じが漂います。

 安田氏の質問からしてどうしようもないという感じ。私に言わせれば、建築において内部で完結した空間なんてあり得ず、同じ意味で、外部環境との関係を無視した建築もあり得ません。あり得るといくら安田氏が言っても、ないものはない。外部環境との関係を重視している(ようである)隈さんから、そういった話を引き出すためのマクラというか誘い水としての質問と想像可能すれば理解は可能ですが、私の納得の範疇は越えてしまっています。

 「建築とは外部との関係性である」と言い切ってしまう隈さんはさすがです。M2がどうなのかは別ですけど。青木淳さんは隈さんの前に載ってますが、青木さんも「建築とは存在自体である」というような事を言ってます(文脈抜きでは誤解を招く引用だな、こりゃ)。このように「建築とは〜である」と一言で言い切るのはカッコ良いですね。
 閑話休題、隈さんの言い切りに戻ると。建築とは外部の関係性であると認識したところからスタートするものであり、そういう意味で外部との関係性をどうとるのかというのは、建築を考える上での前提課題みたいなもので、それを隈さんが「私の発見」のように言ってしまっては学生さんが混乱するんじゃないかと危惧してしまいます。

 という訳で、冒頭、隈さんは、あたりまえのことを当たり前に言っただけということになるんですね。だんだん読む気がなくなってきますか?続きはまた今度。

2004 04 26 11:26 午後 [11書評欄 (読書日記)] | 記事 | コメ (0) | トラバ